海風
そういわれて藤真が仙道の顔を、見つめる。赤く腫れてきた口元に気づいたのだろう、大きく目が見開かれて、そして瞬く。
なにしろ、パンチばかりでなく蹴りまで入れたんだからな。そりゃ顔も変わってくるさ。
それでも、恨む気持ちが少しもないのが不思議だった。
「じゃ、ウチまで競争〜!」
階段のガードレールにもたせていた自転車のキーチェーンを素早く開けると、仙道はさっと道路に漕ぎ出した。まだまばらな車の流れを横切り、向う側にわたり、一旦止まる。
振り返ると藤真もまた道路を渡ってこようとしている。藤真の自転車が横に並ぶ、その瞬間に自分も発進する。坂がきつくなってくる辺りでギアを低速に落として、止まることなく漕ぎ登る。そう遠くない後ろからペダルの音が聞こえる。息を切らしていないのは流石だ。
きらきらと輝きだした太陽が斜めに長い影を作る。背中に熱を感じる。
振り返ることなく登り続け、ようやくてっぺんまでついたところでさっと右に曲がる。その一瞬にちらと横を見ると、藤真の真剣な顔と目があった。
キイッーと音がするほどの急ブレーキで、アパートの階段下に自転車をつける。時間を置かずにもう一台も横に並ぶ。
「俺の勝ちですね」
「こっちは道を知らないんだからあたり前だ」
「じゃ、ハンデということで先にシャワーどうぞ」
部屋の鍵を開けて、藤真を招きいれる。藤真が靴を脱ぐと砂がざっと廊下にこぼれた。
「あ、すまん」
慌てた藤真がかがんで落ちた砂を手で払う。しかし、身動きをするたびに髪やパーカからもどんどん砂が落ちてくる。
笑いながら仙道は言う。
「きりがないからいいですよ。後でまとめてやりましょう。風呂こっちです」
(3)
肩にバスタオルをひっかけて藤真が風呂場から出てきた。
「あの、さっきコーヒーっていったけど、ポカリしかなくて、あとは……ビールじゃダメですよね?」
「……ポカリでいい」
冷蔵庫を開けて藤真にペットボトルをわたすと、入れ違いに風呂へ行く。脱衣場にはきちんとたたまれた藤真の衣服がある。ちょっと迷ったけど出しておいた下着もつかってくれたらしい。
汗と砂にまみれた体に、熱いお湯が気持ちよかった。床にはどんどん砂がたまる。髪の毛にこんなに砂がたまるとはちょっと驚きだ。
そう、後で床も掃除しなくては。
もし、ここが親もいる自分の家で、砂だらけの子供が二人こうやって帰ってきたら、中にも入れてもらえず玄関先で水をあびせられたんじゃないだろうか。もちろんホースで、たっぷりの小言と共に。
その時の藤真の顔を想像したら、自然と笑みがこぼれた。
髪を拭きながら出ていくと、藤真が少し驚いたような顔をした。
「なんです?」
「やっぱりそのアタマが見慣れない」
「……すみません。でもセットするの時間かかるんで我慢してください。藤真さんだってこうやって」
と、腕を伸ばして藤真の額にかかる髪をかきあげる。
「立てたりしたらわかんないですよ。あれ?」
「なんだ」
「だめですよ〜ちゃんとアタマ洗わなくちゃ。まだ砂がついてるし…」
それに潮の香りもした。
目の前にある白い額をペロンとなめる。
「なっ…」
「ほらまだしょっぱい」
「おまえはいつもそうなのか?」
「は?」
「ガキみたいに人にべたべたさわるな。なめるな」
仙道の腕にやんわりと藤真の指がかかる。その手がゆっくりと手首をつかみ、まだ藤真の頭にのせていた手をひきはがす。
藤真のわきのテーブルに左手をついて、藤真を囲いこむようにしていた仙道は、合わせて体を引き離そうとしたが、何故かいつまでも右手は開放されなかった。
胸の前で仙道の手をつかんだまま、藤真の口が薄く開いた。
指先に暖かい感触がした。
「ほんとだ、塩味がする」
真面目にやっているのか、それとも先ほどからの仙道の軽口に対抗してのことなのか。
藤真の薄い色の瞳を思わず見つめてしまう。
「今オレに、なめるな、っていいませんでした?」
「いったな」
「藤真さんみたいな人がそういうことすると」
「すると?」
「やらしーですよ」
「そうか」
「そうです。誘ってるのかと思います」
「男なのに?」
うん、と頷く。
「後輩の男の子にこういう事しちゃ、だめです。人生が狂います」
「さっきおまえにキスされたと思うけど?それに男の子ってなんだよ」
「あれはイヤがらせっていうか、お返しっていったでしょう。そのきれいな顔を殴るには忍びなかったから」
「顔なんてどうでもいい」
眉をしかめ、心底イヤそうな顔をして藤真がつぶやく。
「気にいらないならいくらでも殴ればいいんだ」
「でも、その顔が誰かに希望を与えてるかもしれない。数多いあなたのファンの女の子にね。もしかしたらヤローにも」
「きれいとかかわいいっていうなら、その女の子の方にはごろごろいるだろ。わざわざ男のツラ拝むことないんだ」
「まぁ、そうですけどね。不思議ですよねぇ。女の子は自分自身がやわらかくっていい匂いで、それなのにまだキレイなものを欲しがるんです」
「ヤローの方はまぁ、顔ばかりでもないんでしょうね。でも見た目っていうのは結構重要ですよ。持って生まれたものを維持するのって大変だと思います。心根ってねやっぱ顔に出ますよ。あなたがきれいなのは、今までの積み重ねがあるからでしょう。その強さに惹かれるんですよ。憧れっていうかね、そういうの藤真さんにはないですか」
「憧れるってなんだ?遠くから眺めて、勝手に人の中身わかった気になって。誰かみたいになりたいって、そういう事か?そう望んだらその通りになるのか?そんなんなら誰も……」
藤真の声が途切れる。
「――誰も夜の海で泣いたりしない」
一瞬で藤真の表情が硬くなる。
ため息をついて仙道は続ける。
「そしてね、夜明け前の砂浜を走ったりしないんですよ」
「おまえ……」
「特別サービス。本心を打ち明けるにはプライドが許せないほどには近くもなく、事情がわからないほどには遠くない。お互いにピッタリの相手じゃないですか?俺達」
「傷を嘗め合えっていうのか、おまえと?」
「そういうのもアリかなって。他に誰もいないんならね。なぐさめだって時には必要ですよ。どんなに強いと自分で思っていても」
「俺は、」
仙道は捉まれたままの手を上げ、そっと藤真の手をはずすとそのままにぎりしめる。祈るように頭をたれて言葉を搾り出す。
「苦しいです。終わってすぐは悔いのなかったつもりでした。でも後になって、足りなかったものは何だろうって、何度も何度も考えてしまう……」
告白に慣れていない口からは、それだけ云うのがやっとだった。目を固くつぶっても涙さえ流れない。願っていた熱い激情は訪れず、心がしんと冷えていくばかりだ。この苦しみを何かに変えて出してしまうのはやはり無理なのだろうか。
ふいに腕が伸びてきて、そのまま藤真の肩に頭を抱き寄せられる。
「おまえは、泣くことも出来ないってわけか」
耳元でこもった声がする。
そしてため息がひとつ。
「これが本当の同情ってやつだな。気持ちがわかりすぎてイヤな感じだ」
藤真が苦笑する。
「そんでコレが」