名残の、後編
長い間ローデリヒと二人、気まずい雰囲気の中で過ごしていたために頭も冷え、家に帰りたくてたまらなかった衝動も収まり、自分の今の状況を冷めた所から客観的に見ると、とても馬鹿馬鹿しく思える。頭上を見ると月のない夜空で星が薄っすらと輝いていた。
「・・・・・・・・・・・なぁ、腹減らね?」
「ええ・・・・、少々」
「どっか入ろうぜ。そういえば夕飯食ってねぇんだ」
言って、駅の中にある適当なファーストフード店を見繕い入る。適当にホットサンドを頼み席に着いた。周囲には疲れた顔で本を読んで時間をつぶしているサラリーマンから、眠ってしまった学生まで様々な人がいた。どちらかというと地方都市の区分にはいるこの駅でも、夜にはそれなりに人がいるのか、と妙な感想を抱く。
薄っぺらい紙を向き、ホットサンドを取り出すと、口に含む。サク、サクという感触と暖かさに、さきほどまで暑さに不満を抱いていたはずなのに、ペロリと二つ口に収めてしまった。向かい合うように座ったローデリヒもあっという間に口の中へと租借していく。
アイスコーヒーで口の中をすすぐと、一息ついたというように背を椅子に埋もれさせた。
「・・・・・・・・・あー・・・。まさかストとはなぁ」
「衝動的に行動を起こすからこうなるんですよ」
「うるせぇよ。大体なんでお前ここまで来たんだ?」
「・・・・・・・・・・」
しばらく、俺をまっすぐ見ていたのに、ふいと視線をそらす。
「あなたこそ、このメモはなんなんですか」
ローデリヒはポケットからメモを取り出す。
そこには俺が実家に帰る旨を伝える文字が殴り書いてあった。
「・・・・・・・見たとおりだろ。『実家に帰る。荷物はやる』と」
「・・・・意味がわかりません。フェリシアーノなどは心配して涙目になってましたよ。ルーイは大学で連絡はつきませんでしたが」
「まじか」
頭の中にフェリちゃんの顔が思い浮かぶ。
そりゃ、あんなメモじゃ何があったのかと思うだろうな。
そんな配慮も出来なかった数時間前の自分が苦々しく思う。
「なんで、こんなにいきなり帰るなどと?」
「・・・・・・・・・べつに」
「今日は、フェリシアーノと約束してたんじゃなかったのですか?」
「・・・・・・・そう、なんだけど・・・」
「仕事が嫌になりましたか?」
「・・・・・・・・・・・・や」
どうしても目を合わせることが出来ない。
遠くに目をそらすと、すっかり暗くなった窓の外にぽつん、と輝く街頭が目に入った。
「・・・・・・・・・・・仕事が、なくなった」
「は?」
「結婚して、子供生むからって、店長が」
「・・・・・・・・・・・・・・・・なるほど」
ローデリヒは目を伏せコーヒーを飲む。
あんなに、練習したのに。就職して、親父にもルーイにもきちんと顔向けできるようになると思って、がんばったのに。
それなのに。
そこで、ふと気づいた。
「なぁ、お前、ピアノ始めて何年だ?」
「・・・・・・・・・・・。大体18年くらいですね」
「うわ」
18年の間、ああやって毎日弾いてきたのか。
カップを置いたローデリヒの手を見つめる。
指の腹の皮膚が厚い、筋張った手。
この手であの音色を奏でるのか。
「それでも、コンクールには中々最後まで通らないし、就職先はそうそうありません。ただでさえオーケストラは縮小傾向にありますから」
「・・・・・疲れることとか、嫌になったりしねぇのか?」
「・・・時々」
ローデリヒの目に何ともいえない複雑な色が映る。
けれどそれは一瞬で、次の瞬間には払拭されていた。
「でも、好きですから」
あきらめたような、苦笑するような、そんな笑みに、虚をつかれる。
目を二度三度瞬かせ、それから顔を背けた。
就職先がない、といいながらもピアノに従事し続けるこいつに、ならもっと金になるところに行けばいいのに、などと思ったのだが、それでも、どこか心臓の奥のほうが熱くなって、そこから体全体にじんわりと熱が行った様な錯覚を覚える。
再びローデリヒのほうを見ると、こちらをじ、と見つめる瞳と目が合った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰るか」
まだ、帰りには間に合うはずだ。
帰った頃には日付変更線を超えているだろうが、このままここで泊まるよりは何倍もいい。
もちろん、行き先は実家ではなくフェリちゃんやルーイのいる、あの家だ。
言うと、一瞬大きく目を開き、その顔に子供みたいに見えるとか、そんな感想を抱いていると、ふわり、と微笑んだ。
まるで花が綻ぶように。
「・・・・・・・・・・・・・・・何か」
顔を見つめたまま、じっと見つめる俺を不審に思ったのか、眉根を潜める。
あーあ、せっかく綺麗な顔だったのに。
にぃ、と微笑む。
「なぁ、お前が俺を迎えに来たのってさ」
「・・・・・・・・はぁ」
急に微笑む俺に、警戒したようにローデリヒが答える。
「俺がいなきゃ寂しいからだろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
どん、と音を立てて席を立つと、自分の鞄を持って踵を返すローデリヒ。
思ったとおり過ぎる反応に声を立てて笑った。
「え?マジ?マジ?図星!?」
「うるさいですよ。私はさっさと帰りますから」
「俺も帰るんだよ。なぁ、耳赤くね?」
「何馬鹿なことを言ってるんですか」
突き刺さる冷たい視線すら面白くて仕方がない。
早足で歩くローデリヒの後ろをからかいながら歩く。
手を伸ばせば届く距離。
この初夏の熱気の中で、隠せば不自然に鳴らざるを得ない、ローデリヒの赤い耳。
それらが心地よくて、楽しくて、素直に、またがんばろう、と思えたのだった。
END