波間の蜜月
「…なに?」
「お前を放って行方不明になるような男に、お前は渡さない」
思い詰めた顔に胸がざわめく。
『幸せになれる相手を選ばないなら、どうなったっていいってことだよな』
ああ、あの日と同じ顔をしてるんだ。
首を振ると、ギルベルトの顔を見つめる。
「最初からずっと、私はギルのものよ」
一呼吸置いた。頬が赤らむ。
「…あなたのところ以外、お嫁に行く気なんかない」
赤紫の目を丸くしているギルベルトの頬にそっと触れる。
「だから少しだけ、昔話を聞いてくれる? ギルと、私の」
***
長い長い告白が、嘘のように記憶の霞を取り去って行く。
信じられるわけあるかと突き放しても、一生の話を財産目当てで決めるのかと
なじっても、エリザベータは逃げなかった。
ローデリヒの味方の女に、嫌がらせをしてやろうと思っただけだった。
あいつが信頼している、たぶん結構気に入っているのであろう女を取り上げたかった。
少しの間の後、エリザベータが頷いて、初めて猛烈な後悔が襲ってきた。
ビンタのひとつも食らって、幻滅されて、ののしりあって、それでおしまいになるんじゃなかったのか。
廊下へ出たエリザベータの父が、メイドに何やら弾んだ声で話しかけている。
花嫁衣装の話だ。
たった今、結婚を申し込み、そして承諾した当事者2人は、凍りついたように立ちつくしていて、外側の人々だけが浮き立っている。
「バカかお前。このままじゃ」
涙を浮かべて侮辱に耐えているエリザベータの肩をつかんだ。
思っていたよりもずっと、エリザベータの肩は細かった。
このまま否定しないのなら、いずれ俺の隣で花嫁衣装をまとう肩。
その後にあるものまでこいつは納得ずくなのか。
うつむいた顔を彩る睫毛の長さも、噛み締めている唇の桃色も、血の気が失せて陶器のように白い肌も。
――――俺なんかに汚されるためのものじゃないだろう?
――――全部俺が汚してしまいたい
渦巻いた自己嫌悪と自己否定は、自分を肯定するもの全てが許せなかった。
お前はいつだって俺の正しくないところを容赦なく暴いたじゃないか。
じゃれても喧嘩しても怒鳴り合ってても、お前は正しかったのに。
どうして俺なんかを許した。
もどかしく肩を引き寄せて、無理やり唇を重ねた。
苦い感傷を興奮で上塗りして、見えないフリをした。
許す言葉なんか聞きたくなくて、でもいまさら責められたくもなくて、
とぎれとぎれに唇だけずっと塞ぎ続けた。
あの日の自分は、ひとかけらの正しさもあってはいけなかったのだ。
どんなふうに屋敷を出たのか記憶はなくて、
家に戻る気にもなれず、叩き出されるまで安飲み屋で飲んだくれた。
気付いたら暗い路地裏を明かりもなしで、壁を手でつたいながら歩き回っていた。
潮風が鼻をくすぐって、海辺であることを悟ったのと同時くらいに、足場が消えて海に放り出された。
いい死にざまじゃねえか。
抵抗もせずに沈もうとしたところを、アントーニョに引き上げられたのだった。
***
ずいぶん長いこと、話していた気がする。
ギルベルトの腕が背中に回って、ゆっくり抱きしめられる。
「ばかか、おまえ。何カ月、俺なんか探して」
かすれた声がうなじをくすぐった。
「俺なんかって二度と言わないで、ギル」
広くなった背中に両手でしがみつく。
「私の、ずっと好きだった人なんだから」
びく、と背中を起こしたギルベルトの赤い目が、エリザベータを見てから左右にうろつく。
「ずっと?」
「…うん、そうだけど」
ギルベルトは、瞬いたエリザベータの前で顔を背けて、口の中で何かもごもご言っている。
「言ってなくてごめん。もっと早く言えばよかったわ、本当に」
「…っ、いや、それは俺の」
言いかけてまたギルベルトが左右に首を振る。
照れているのだと分かったので、エリザベータはくすくす笑いながらまた抱きつこうと両手を広げる。
「こら、こら待て違う、違うちょっと待て!!」
押しとどめられて手を引っ込めると、ギルベルトはついに真っ赤になった顔を手で隠してしゃがみこんだ。
「不意打ちはないだろ…」
言いたいことを言っただけだから不意打ちのつもりなんかさらさらなかったけれど、
あのギルベルトが床にへたりこんで照れ隠しに必死なのはちょっと楽しい。
見下ろしてニヨニヨしていたエリザベータの前で、ギルベルトが姿勢を正した。
片膝を床に、片膝を立ててエリザベータの手を取る。
静かな間を置いてから、まっすぐ視線を向けられた。
「結婚してくれ。愛してる。ガキの頃から、たぶんずっと」
「…は」
いきなり真顔で言われて、返答に詰まった。
口を開けたり閉じたりしてから、たった一言で済むんだと思いだして、
答えようと口を開き直す。
「幸せにする。俺の隣にいてくれ。お前の料理が食いたい。頼む。あの時のことは、本当に…すまなかった」
まさに答えようとした瞬間に畳みかけられて、また言葉に詰まる。
「い、いいわよ…あんたの自暴自棄なんか、慣れっこなんだから」
うやうやしく出された手を握って振り回す。
「イエスじゃなかったら、張り倒して家出くらい平気なんだからね、私…ひゃっ?」
船がゆっくり動き出した。
急に重心がかしいで、エリザベータはそのままギルベルトの腕の中に転がり込む。
「くそ…」
ギルベルトは重々しい声で呟いている。
「お前は俺の記憶喪失時の記憶をなくすべきだ。フェアじゃねえ…」
運命を呪う怨嗟の声に、エリザベータは声を上げて笑った。
***
白い帆に風をいっぱいにはらんで、波の上を一艘の帆船が滑り出す。
「船長さんさあ」
フランシスが甲板でアントーニョの肩に肘を置く。
「一般人ホイホイ乗せすぎなんじゃないの?」
「乗せちゃったもんはしゃーないやん」
「それになあフランシス」
「海賊船でハネムーンてのも、悪くないやんな?」
あっけらかんと笑うアントーニョの横で、フランシスはギルベルトの船室へ続く廊下に「清掃中」の札をかけてやった。
波はおだやかで、風は順調だ。
まるきりそのまま、2人の船出のように。
***END***