波間の蜜月
絶え間なく顔を寄せて体を寄せ合っている合間にちらりと覗く頬が涙で濡れている。
一晩だけのことだと思われててもしかたない。
今日出会ったばかりで、船乗りで、それも海賊で、記憶もなくて。
遊びにするつもりもこれきりのつもりも微塵もないけれど、陸で平和に暮らしてきた町娘との接点は少なすぎる。
「エリザベータ、愛してる」
「…ばか」
「ほんとだって」
くぐもった声で憎まれ口をきくエリザベータを抱きしめて何度も告げる。
伝わりきってないのが明らかで、もどかしい。
エリザベータを取り巻く全てから彼女自身を引き剥がしてもいい。
あるいは自分のなくした過去ごと、自分の過去と未来を彼女のためにささげてもいい。
そのかわり、残りの一生を2人で過ごしたい。
「結婚しようぜ」
思考は実にクリアにまとまった。
ただ惚れたんじゃなくて、一生一緒にいたいと思うんだから、結婚すればいいんだ。
エリザベータがぴくんと震えて、恥ずかしげにシーツに隠れていた緑の瞳がじっとこっちを向いた。
「なにいってるの、ばか!」
素早く毒づいて、シーツの中に顔がすっぽり逃げ込んだ。
ああ、プロポーズするにゃ指輪が足りてねえな、と思い当たった。
シーツごとエリザベータを抱きしめながら、明日指輪を買いに行こうと決心した。
***
結婚相手が決まったと、実家に呼び戻されたのは半年と少し前のこと。
相変わらず、当事者に相談もせずに決めてしまう父に落胆しつつ、結婚をどう断ろうか思案していたエリザベータは、
相手と引きあわされて驚愕した。
仏頂面で待たされていたギルベルトは、エリザベータの顔を横眼でにらむと
「そういうことだ」
と言ったきり黙りこんだ。
そういうことだってどういうこと、と問い詰める間もなく、妙な納得が押し寄せてきてエリザベータは脱力した。
幼馴染のギルベルトが、家督を継ぐより軍人として家を出たがっているのは知っていた。
弟のほうが家を取り仕切るのに向いているのに、自分が継ぐ必要はないと言っているらしいとエーデルシュタイン家でも噂に聞いた。
血筋にうるさく、順番を守りたがるバイルシュミット家。
ギルベルトが家と縁を切って、かつ家名を汚しすぎないようにするのなら、
身分違いの結婚のひとつもすればいい。
たとえば幼馴染の町娘エリザベータの家、跡取り婿を探しているヘーデルヴァーリ家の主に相談を持ちかけるなら、
顔見知りの青年の申し出を父が断るはずもない。
悪ガキ同士追いかけっこしていた頃からの知り合いなのだから、バイルシュミット家の厳格な父も苦笑いしてそのうち水に流すのだろうと想像がつく。
何もかも好都合だった。
恋愛の先にある結婚じゃない、ってこと以外は。
エリザベータは迷った。
このまま、この結婚を受け入れて良いのかどうか。
ギルベルトが一番、味方に飢えていたであろう時に、ローデリヒの味方をした自分。
きっと彼の中では、自分は敵のひとりに数えられているはずなのに。
誰もがこの結婚をきっと、幼馴染の清らかな恋愛の結末だと受け止める。
視線を逸らしてかたくなに黙っているギルベルトの横顔は、そういった甘やかな道程を越えて結婚を申し込みにきた男の顔には見えない。
孤独な道を貫くために、仕方ない妥協をしている男の顔だった。
「…いいわ」
エリザベータは深呼吸をしてから、ギルベルトに答えた。
「あなたと結婚する」
赤紫色の目が見開かれた。
視線を合わせて頷いた。
だって放っておけなかった。
あの日の償い?女としての意地?ローデリヒさんとの仲介役になれるかも?
全部の可能性の中から、自分が一番したいことを考えた。
――――私は。
これ以上、あいつに自分を一人だと思わせていたくない。
安堵した表情で父が部屋を後にし、ドアがゆっくり閉められた後、ギルベルトが頬をゆがめた。
いびつな亀裂が入るように嗤った。
味方として認められるためには、想像よりずっと多くの試練があるだろうと思ってはいた。
けれど想像よりもっと、ギルベルトの歪みは大きくて、結局エリザベータはそれを受け止めきることができなかったのだった。
***
一夜明けて晴天。
くたびれきって小さく寝息をたてているエリザベータの髪に口づけを落として、ギルベルトは宿を出た。
赤いレンガの敷き詰められた曲がりくねった小道を抜けて、バザールへ急ぐ。
足取り軽く揺れるプラチナブロンドに、横合いから手が伸びてきてぐしゃりとかきまわされた。
「おっ!?」
「よーうギルベルト、ゴキゲンやな」
人懐こい声を出して肩にしなだれかかってくるラテン系の男に笑い返す。
「おう、アントーニョ」
海賊船の船長であり、命の恩人でもある男はギルベルトの首に日に焼けた腕を回すと顔を近づけた。
「自分昨夜はずいぶんいい事あったらしいやんなあ」
酒場での一連の騒ぎはすっかり承知の様子で、ギルベルトの短い髪をわしわしかき回す。
「おー。言っとくけどお前、エリザベータに手ェ出すなよ? もう速攻プロポーズするから。つか今からする勢いだかんな」
「あれ、じゃあ酒場で連れてた子って本当にエリザベータ・ヘーデルヴァーリなんか」
並んで歩いていたアントーニョがふと立ち止まったので、つられて振り返る。
「?なんだよ、エリザベータがどうかしたのか」
「あの子なあ、人探しで港に来てるって噂やで」
「へえ、親? 兄弟? そりゃ手伝ってやらねーと」
アントーニョが困った風に眉尻を下げている。
「いやあ、婚約者って話なんやけど」
世界が急にモノクロになった気がした。
物憂げな横顔。
キスした時の、抱きしめた時の、涙。
全部の理由がクリアになるかわりに、堰を切ったように感情が溢れた。
「渡さねえ…」
「おい、ギル――――」
アントーニョの手を振り払って向き直る。
「かっさらって海の上なら探し人だかも手ェ出せねえだろ、船に連れてく」
言い捨てると宿に向かって駆け出した。
あんな風に泣かせたまま捨てていくような男に、あいつの一生を渡すわけにはいかない。
***
けだるい朝、起きたらギルベルトはすでにいなかった。
指輪買うからゆびわ…、と寝言で呟いていたのを思い出してエリザベータはくすくす笑った。
ブラシがないから手で髪を整えて、服を着る。
結い上げられなかったので髪は下ろしたままにして、こめかみに髪留めをつける。
鏡をのぞきこんで、自分の顔に笑いかけた。こんな明るい顔、久しぶりに見た気がする。
宿の階段を駆け上がってくる足音がして、乱暴にドアが開いた。
「エリザベータ、来い!」
「ギルベルト?」
強い口調に振り返ってみれば、記憶をなくしてから初めて見る、あの時のような厳しい表情。
「どうしたの、ギル」
「来いよ、船に乗るんだ」
「船? なんで?」
手首をつかまれて、十分な説明もないままにすごい勢いで引っ張られる。
険しい横顔はまるであの時のようで、喉がひりついてそれ以上声が出ない。
早足のギルベルトに引きずられるようにして桟橋を渡り、甲板を降りて船室へ。
桟橋で足元がぐらつくと、びっくりするくらい優しく抱き寄せられて余計に混乱した。
なのに船室の扉を後ろ手に閉めた顔はまだ険しい。
「渡さないからな」