わたしは明日、明日のあなたとデートする
私は自分の腕を見た。なんともない。そもそも既に痛みもない。
「うん、大丈夫。気をつけて行きなよ」
「はい。ほんとうに申し訳ありませんでした」
私にぺこりと頭を下げて自転車に乗ろうとした彼女が悲鳴を上げた。
「やだ、パンクしてる。どうしよう」
見ると、前輪のタイヤが見事にぺしゃんこになっている。さっき電柱に激突した時にパンクしてしまったのだろうか。これでは乗っていくことはできない。
パンクした自転車のハンドルを持って、彼女が途方に暮れたような顔を私に向けた。
「このあたりに自転車屋さんってありましたっけ・・?」
「ごめんなさい。私は地元じゃないからよくわからないの」
「どうしよう・・もう間に合わないよ・・」
彼女の顔が半泣きになった。よほど大事な用事らしい。
その時、三条大橋の方から自転車がまた一台走ってきた。今度は通学用の自転車ではなく、ドロップハンドルのスポーツ自転車だ。半袖のシャツに短パンの若い男の子が乗っていたが、彼は私たちを見るとその場に自転車を停めた。
「どうした?」
ぶっきらぼうに聞いてくる。
「あ、この子の自転車がパンクしちゃって困ってるの」
男の子の無愛想な様子にどきまぎしている彼女に替わって私が答えた。
「ふーん。見てやるよ」
彼は自転車の後輪を電柱に立てかけて停めると、ウエストバッグから工具を取り出し、あっという間に彼女の自転車の前輪を外してしまった。
そして小さなレバーを三本ほど取り出し、器用にレバーを操って前輪からタイヤを外してしまった。
「あー、こりゃダメだ。チューブがズタズタになってる」
彼の肩越しに手元を覗き込むと、確かにチューブに大きな裂け目がいくつか走っていた。これは直せなさそうだ。
「・・待てよ。もしかしたら」
彼はそう呟いて、ウエストバッグの中身を路上に次々と広げていった。工具やサイフ、地図などが次々と路上に並べられていった。
「あった」
彼がウエストバッグの底から真っ黒な塊を出してきた。
「多分、これが使えると思う」
彼女の方をちらっと向いて言った。口調は相変わらずぶっきらぼうだが、彼女が彼を見る目には既に警戒心ではなく、尊敬が混じっていた。
彼が黒い塊を広げると、大きなゴムの輪になった。これはチューブだったのか。
彼は裂けたチューブを引っ張り出すと、替わりに新しいチューブをタイヤと前輪の隙間に押し込んでいった。そして再びレバーを操ってタイヤを前輪に嵌める。
次に彼は自分の自転車のフレームに括り付けていた筒のようなものを取ってきた。
これは小型のポンプだったらしい。それを使ってタイヤに空気を入れた。
あっという間にパンク修理が完了してしまった。
「これで乗れるよ」
彼の顔は汚れた手で顔の汗を拭ったりしたため、あちこちが黒くなっていた。
彼はさらに、彼女の足を血が伝っているのを見つけ、ウエストバッグから絆創膏を取り出して彼女にほら、と差し出した。彼女が彼を見る目は既に憧れさえ混じっているように見えた。そりゃ彼女の立場だったら私だってときめいてしまうよ、と思う。
「じゃあ」
と言って自転車にまたがり、立ち去ろうとする彼を彼女が止めた。
「あ、ありがとうございました。あの、修理代を払います」
「いいよ、そんなもん」
彼の口調は相変わらずぶっきらぼうだが、もうそれさえカッコ良く見えているのだろうな、彼女には。何を隠そう私にもそう見えちゃってる。
「だって、チューブ代だけでも」
彼女が食い下がる。
「俺の家、枚方で自転車屋をやってるんだよ。だから工具もチューブも家の作業場からパクッてきたやつだから」
「だったら枚方にチューブ代を払いに行きますから、住所を教えてください」
彼女はバッグから手帳とボールペンを取り出し、彼に差し出した。というより突き出した、と言った方が正確な表現かも。
私は今、彼が「枚方で自転車屋をやっている」という言葉に、稲妻が頭の中を走ったような気がして、必死に記憶を手繰っていた。彼の顔をよく見れば見るほど、面影があるように思える。
すると彼女は?
彼女の顔もよく見ると面影がある。私はこの二人と二七年後と七年後に、それぞれ一度だけ会っている。どちらの時も短時間しか会っていないが、二人をよく見ると間違いないように思えた。
「君も高三なんだ。じゃあ同じ歳だから敬語は使わなくて良いよ」
「枚方から自転車で来たの?すごいね」
「だったら枚方まで来なくても、俺がこっちに出てくるよ。考えたらチューブは家からパクッてきたやつだから、家までチューブ代を持ってこられると親に取られて終わりだもんな」
会話の断片が聞こえてくる。彼の方はだいぶ打ち解けたのか不器用な笑顔を見せるようになっていた。
彼がじゃあ、と手を振って自転車に乗り、去っていった。彼女はその後ろ姿を見送っていた。
私はこっそり、彼女が握り締めている手帳を覗いてみた。彼の連絡先が書かれている右側のページは破り取られていた。彼女が自分の連絡先を書いて渡したのだろう。
彼の名字は、「南山」と書かれていた。
私は小さな居酒屋のカウンター席に座って、さっきの出来事を思い出していた。
微笑ましい恋の始まりだった。
いいもの見ちゃったな、と思っていれば良いのだろうけど、その二人が高寿の両親、というのはどう考えたら良いのだろう。私が二人を引き合わせたようなものだ。
私には高寿との運命の輪を閉じるために、最後にもう一仕事残っていた、ということなのだろうか。それでは、私が「運命に逆らう」と自分では思っていた一連のことも、高志が言うようにこれも予定の出来事で、私は運命の掌の上で踊っていただけだったのだろうか。
そんなことは覚悟の上で、逆らう「意志」が大切、と自分にも高志にも言ってきたが、いざ現実を目の前に突き付けられるとやはりショックだった。
ホテルを取った時もそうだった。
私は昨日(明日)、ホテルを取った時にフロントが私に見覚えがある素振りを見せなかったことを思い出し、わざと同じホテルに行って部屋を取った。小さなことでもいちいち逆らいたい気分になっていたためだが、フロントはみな見覚えがない顔だった。
交代制勤務だろうから考えてみれば十分予想できたことなのだが、こんな小さなことでもいちいちがっかりしてしまう。
そんなわけで、この居酒屋に入ったときの私は、浮かない顔をしていたに違いない。
「どちらからいらしたんですか?」
私が鯖の味噌煮を肴に熱燗の日本酒を手酌で一合ほど飲み干した頃、店主の妻らしい女性が私に話しかけてきた。
「遠いところから、です」
言ってからしまった、と思った。会話を拒否するようなムードを作ってしまったようだ。せっかく話しかけてきてくれた奥さんも次の言葉が思いつかないような顔をしている。かといって、私もすぐに取り繕うような気にもなれなかったりする。
作品名:わたしは明日、明日のあなたとデートする 作家名:空跳ぶカエル