二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」
空跳ぶカエル
空跳ぶカエル
novelistID. 56387
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

わたしは明日、明日のあなたとデートする

INDEX|26ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 

 総合情報サイトに彼の項目があったのでタッチして見に行った。
 南山高寿は、「大阪府出身の小説家、アニメ監督、アニメーター」と紹介されていた。
 画像を見て胸が熱くなった。五年前の新作アニメの制作発表の時の画像らしいが、二十歳の高寿と比べると年齢を感じるのは当然だが、目の感じがほとんど変わっていない、と思った。
 このサイトによると、高寿は二〇一四年に、「アンドロイドの恋人」という小説でデビューし、二〇一八年には自らそれをアニメ化している。その後、何作かのアニメ映画を手がけた後、二〇二八年にアニメスタジオ「Fukuwarai」を設立、代表取締役社長となっている。そして二〇三七年にアニメ「ぼくは昨日、明日のきみとデートした」を公開、これが世界的に大ヒットとなり、名実共に日本のアニメ界を代表する人物となった、ということらしい。
 私は十歳の時に高寿に会った際、アニメ映画を作っていることを聞いていただけだったので、ここまで活躍しているとは正直思っていなかった。誇らしい反面、手が届かないところに行ってしまったようで、少し寂しい。
 略歴のところに「二〇二七年、一般女性と結婚」という文章を見つけて、私の心臓が一瞬止まった。
 確かに高寿には、新しい恋人をつくって幸せになって欲しい、と言った。でもそれは、高寿とはこの先違う世界で生きることになり、もう二度と会えないから。
 高志には、高寿が結婚していて私が入り込む余地はない可能性があるけれど、それでも後悔しない、とは言った。でも現実に同じ世界にいる高寿が他の女性と結婚した、という事実は、やはり私を狼狽させた。私は自分の世界にいては高寿と終われない、と言ってこちらの世界に来たのだけど、当たり前のことだが「終わり」は痛みを伴うものだということを、私は思い出した。知っていたけど、現実になるまで忘れているものなのだろうか。
 略歴には二〇三八年、つまり二年前にその女性とは離婚したことも書かれていたが、私にはそれを手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。つまり、私が高寿と別れた後、三十年の歳月を過ごしたのと同じ年月を高寿も重ねているのだ、という事実は、私には重くのしかかった。私の三十年が軽くなかったように、高寿の三十年だって重いはずなのだ。

 高寿の作品の中で、「ぼくは昨日、明日のきみとデートした」は気になった。
 このタイトルからして、私が高寿と過ごした二十歳の四十日間のことを思い起こさせる。この作品は世界中でヒットし、ヒロインのエミはフィギュアや立体ホログラムが何種類も作られ、それが世界中で爆発的に売れるほどの人気となったらしい。
 エミ、というヒロインの名前も私と同じだ。つまりこの作品は、私と高寿のあの日々を題材にしていることは確実なように思われた。
 今の高寿の中で、正確には三年前の高寿だが、彼にとってあの四十日はいったい何だったのか、この映画を観ればわかるような気がした私は、映画配信サイトからその映画をダウンロードすることにした。幸い、ネットカフェの代金と一緒に支払いができる映画配信サイトがあったので、そこから映画をダウンロードして再生した。

 オープニングが終わると、早朝の街並みを空から俯瞰するシーンから映画は始まった。次にカメラは街の様々な場所を映し、やがて見覚えがあるアパートが画面に映し出された。その間、何回か電車が走っているシーン、その車内で吊革を掴んで立っている青年を映すシーンがカットインされた。そして画面はアパートに戻る。一階にコインランドリー、緑のドア、あのアパートだ。
 画面はしばらくそのまま固定されていたが、やがて女性の後ろ姿が階段を昇っていくのが見えた。カメラはしばらくしてから、やや上空からアパートを眺めることができる視点までズームアウトした。すると、さっきの女性が三階の五番目のドアの前に立っているのが見えた。
 カメラは今度はアパートに近づき、廊下の奥から彼女を真横から見る画面になった。シルエットのその女性は、ドアに掌を当てて俯いている。
 すぐに彼女は廊下を奥に歩いていき、階段を下りていった。
 カメラは街を歩く彼女の後ろ姿を追っていた。やがて彼女は駅の改札を通り、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。背後から彼女を追うカメラが、彼女の視線の先に、吊革を掴む青年の姿を捉えた。

 次に画面は、その青年を捉えた。この青年は、高寿にあまり似ていない、と私は思った。青年がふと気配に気づくと、画面は青年の視点に切り替わり、混雑した車内を人をかき分けながら近づいてくる女性が見えた。その女性が近くまで来たとき、初めて女性の顔がはっきりと見えた。
 その瞬間、思わず私は胸に手を当てた。胸が締め付けられたからだ。
 その女の子は、私だった。デフォルメされたアニメの絵でありながら、一目で私だ、と確信できるほど、私の顔の特徴を完璧に再現していた。雰囲気や仕草もまるで私が実際に画面の中で演じているように思えた。
 私は思わずハンカチを出して目に当てた。
 二十七年も経っていたのに、こんなに私の顔や姿や仕草を高寿が覚えていてくれた、ということに私は感激して泣いた。

 その後の展開は、ほぼ私の記憶どおりだった、と言って良い。主人公の青年の名前はケンジといった。そのケンジが単独で出てくるシーンはもちろん私の記憶にはないのだが、電話の会話、デートの時の会話、ほとんどのシーンが私の記憶にあるものとほぼ同じだった。
 最初に宝ヶ池駅でケンジがエミに声を掛け、宝ヶ池の東屋でエミが泣くシーンは私も一緒に声をあげて泣いていた。
 鞍馬山でエミを置き去りにして帰ってしまったケンジが、夜半にアパートの部屋で「乗り越える」シーンは、私はしゃくり上げながら泣いていた。
 何も知らない普通の人が見ても「泣ける映画」なのは間違いなかったが、当事者の私が冷静に鑑賞できるわけもなかったわけで。

 ただ、映画が進むうち、私は違うことを思い始めていた。
 この映画は、観客にとってはよくできた創作ファンタジー映画なのかもしれないが、私と高寿だけが知っていることだけど、これは「ノンフィクション記録映画」だ。
 高寿が二十七年も昔の私との四十日間を、これだけ克明に記憶してくれている、ということは、今の高寿にとってもあの日々が、かけがえがない大切なものだということを語っている気がして、それは私もほんとうに嬉しい、と思う。
 でも、その四十日をこういう形で「記録」としてまとめて世に出す、ということは、高寿にとってこの映画は、「清算」なのではないだろうか。
 ほんとうは、あの二十歳の年の五月二十三日に、私と高寿は「終わって」いた。どんなに愛し合っていても、もう永遠に会えないのだから。少なくとも私も高寿もそう思っていたのだから。

 やがて映画はラストに近づき、私が消えた宝ヶ池の東屋でケンジが泣き続けていた。
 そうだ。あれが「決定的な終わり」だからこそ、このシーンはこんなに切なく観客に訴えるのだし、あの時私も高寿も同じ悲しみを共有したんだ。
 でも高寿は、その後「終わり」を受け入ることができなかったに違いない。私がそうだったように。