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兄さん

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頭の上に硬いものが落ちてきて目を覚ました。
 すぐ横に見慣れないベッドがあって、頭の横に自分のものではない携帯が転がっている。
 携帯に打たれた額をさすりながら起き上がると、高くなった視界の至近距離に健二の寝顔があった。
「……っ!」
 首を巡らせて遮光カーテンの隙間から光の差す部屋を見渡すうち、そこが初めて訪れた健二の部屋だと思いだした。
 部屋着とほとんど差がないランニングシャツとハーフパンツを寝間着にしている自分とは違い、上下揃いの寝間着のボタンを上まで留めて眠っている健二が小さく唸って寝返りを打った。
 昨夜から佳主馬はこの部屋に住んでいる。


 十年以上も一人っ子だったから、兄弟というものも、赤ん坊との生活も隣の家の出来事のようだった。
 赤ん坊が家に来て、おっかなびっくり世話をしている間は旅先での出来事みたいに特殊な時間だった。新鮮さと不安と喜びが入り交じって、手が汚れても嫌だなんて思わなかった。
 後から思えばその頃はまだお客さんだった。小さな妹のいる家に滞在しているお客さん。
 三ヶ月頃には妹のいる生活に馴れた。一人でも上手にオムツが替えられるしミルクだって作れた。
 深夜にも泣き出すことがあったけど、妹と一緒に寝ている母親がおっぱいをやればすぐに静かになったし、小さな手で指を握ってくれるのが可愛かった。
 六ヶ月過ぎる頃にいわゆる夜泣きが始まった。もっと小さな頃にも夜中に泣き出すことがあったけど、それとは違う。どこか痛いのか心配になるぐらい苦しそうに泣いてなかなか泣き止まない。
 両親と妹が眠る隣の部屋にいても目が覚めた。忙しい時にさえそれなので、二ヶ月後にはヘッドフォンを遮音性の高いものに新調した。
 もう中学生だから、母親を妹に取られて寂しいなんて言わなかった。だけど、育児番組や雑誌が「上の子のケアを忘れずに」なんて言うもんだから、仕事で忙しい父親がやけに気を使ってくれる。
「今日は父さんと風呂に入ろうか」
「もう入ったから一人で入ってよ」
「じゃあ風呂上りに晩酌に付き合ってくれよ。ジュース買ってきて冷蔵庫に冷やしてあるぞ」
「歯磨きした後にジュース飲むと母さんに怒られるし、これからOMCの試合があるから」
 まだ食い下がろうとする父を風呂場に押し込んで子供部屋に閉じこもる。母は隣の部屋で妹を寝かしつけていた。
 パソコン前に座ってOZにログインすると、すぐにメッセージが飛んできた。

  >ケンジ:今、大丈夫?

 ヘッドフォンを首にひっかけたままチャットウィンドウを開いてキーボードに指を走らせた。

  >カズマ:うるさくできないけど、チャットなら
  >ケンジ:赤ちゃんは寝てる?
  >カズマ:寝かしつけてるところ。もう寝てるかも
  >ケンジ:昨日より早いね
  >カズマ:でも三時間もしたら起きると思うよ。どうせなら試合中に寝ててくれるといいのに
  >ケンジ:今日は公式戦の予定はないの?
  >カズマ:うん。健二さんの相手しようか?

 OZアバターを格闘させるネットワークゲーム、OZマーシャルアーツはOZの中でも人気コンテンツだ。だけど健二はあまり得意じゃない。案の定、苦笑いの顔文字と一緒に断られた。

  >カズマ:だと思った
  >ケンジ:代わりに一緒にパズルやる?
  >カズマ:数字のやつでしょ?説明されたって解き方もわかんないんだもん、やだよ
  >ケンジ:だと思った(笑

 一昨日ボイスチャットをしたばっかりだから、文字からクスクス笑う声が聞こえてくる。マイク越しの少し低い落ち着いた声だ。
(声が聞きたいな。一方的でいいから通話してくれないかな)
 チャットウィンドウにまったく別のメッセージを打ち込んで送信してからヘッドフォンをして音楽を再生した。
 健二とは去年の夏、妹が生まれる一ヶ月前に出会って、それ以来、ネット上の仮想世界OZで連絡を取り合うようになった。
 今では毎日のようにお互いのアバターが待機する仮想ルームのドアを叩く。
 妹が生まれてすぐの頃は一週間に一度ぐらいだった。企業と取引のあるOMCチャンピオン佳主馬は夏に起きたラブマシーン事件の後、何かと忙しかった。
 それに妹の様子も気になって。一時期はOZのアクセス時間があからさまに短くなったおかげで周りにも兄バカだと笑われたものだ。
 忙しさが一段落して妹からも少し離れたくなった頃、佳主馬はやっぱりOZを開いた。登録しているフレンドリストを開けばオンラインのユーザアイコンがフルカラー、オフラインのユーザアイコンはモノクロで表示される。あの夏以来健二が使っている丸いリスアバターはいつだってよく目に付く黄色で並んでいた。
『うちに帰ってもどうせ一人だし、すぐパソコンつけちゃうんだ』
 ビデオチャットをすると大抵暗い部屋にいる。佳主馬も一人の部屋では灯りをつけないことが多いけれど、最近は様子を見に来た父が「目が悪くなる」と言って勝手に蛍光灯のスイッチを入れていく。
 パソコン越しの健二が暗い部屋の中でそのやりとりを笑うので佳主馬は頬を膨らました。
「健二さんだって部屋を暗くしてるくせに」
『うちは誰もスイッチ入れにこないからね』
「邪魔が入らなくていいね」
『集中してやることもないのに静かでもありがたみがないよ』
「やることって、メールで送られてきた暗号を解くとか?」
『もう、勘弁してったら!』
 家族とすごすのに疲れたときはいつもOZにログインして、大抵待機している健二と話す。
 毎日のように連絡を取り合っていると、ましてそれがボイスチャットだったりすると、不機嫌を隠しておけない。つい愚痴がこぼれても健二は同調も否定もしない。それが良かった。



 妹があと一ヶ月半ほどで一歳になる夏休みの始め。
 子供部屋のエアコンが壊れた。
 仕方なくリビングで過ごすことが増え、同時にボイスチャットもしなくなった。
 学校の友達は塾の夏期講習に忙しい。中学三年の夏だ。佳主馬も誘われたが断った。偏差値の高い高校っていうのは偏差値の高い大学が目標だから目指すものだ。生憎と佳主馬はそういった目標を掲げていなかった。
 日頃の成績も悪くはない。OZでの活動にとやかく言われないための努力はしている。
 仕事の予定をいつも以上に詰めている夏休みを削りたくはなかった。
 でも、エアコンの故障で予定が狂った。
 盛んに動きまわるようになった妹がパソコンを乗せていたテーブルに体当りする。それで打った肘が痛いと泣き出し、母があやしている間に子供部屋に戻ったものの、一時間で限界を感じてリビングに戻ってきた。今度は妹の動向に注意しながら。
 妹は興味を持ったものは何でも触りたがる。麦茶の入ったコップ、その下に敷いてある布製のコースター。パソコンのキーボードを押したがって何度か攻防を繰り返し、やっと興味が他へ移ったかと思ったらテレビのリモコンを見つけて音量を最大にした。
 きわめつきは隠してあったルーターの電源を見つけ出してコンセントを引き抜こうとした。
 怒鳴りたくて吸った息を爆発させることが出来ず、細く吐いて家を飛び出した。
 その日の夜には背中を丸めて東京にいた。


作品名:兄さん 作家名:3丁目