At one
― At one ―
六年前のその頃、僕は体が弱くろくに家から出ることも適わぬ身でございました。学校にはまともに通えませんでしたが、勉強は好きでしたので延々と家にある本を読む毎日でした。
そんな時に家に来たのがツヨシでございます。僕と同じ名前の、同じ年の、全く似ていない少年でございました。
ツヨシには色々な事情がありまして(もっとも僕には一つとしてその内容を伝えられることはありませんでしたが)僕の家に養子として引き取られて来たのでございます。それはあまりに体の弱い僕の代わりに跡継ぎを取ろうという考えからというのは存じておりましたが、私はそれでも話し相手が出来るのだと知って心を躍らせていました。
そして、僕の部屋を訪ねてきた…いいえ、僕の部屋に侵入してきたのは同じほどの背丈をした、しかしその他はどこも似たところの見当たらない少年でございました。
黒い髪に同じ色をした瞳、萌黄色のシャツにサイズの大きなズボン、大きなつばのついた帽子、それに土足。
「お前、ちょっとかくまってくれないか!」
「は…はあ…」
一言そう言いまして、その少年は僕のベッドの下へともぐりこみました。すぐに、土の跡で追ってきた使いの者に気づかれてしまいましたが…
「ツヨシ様!せめて泥を落としてからお願いいたします…!これから住まわれるのですから、あまりお汚しになられるのは…」
歯切れの悪い執事の言葉からは、この少年が今日から家に来たという彼だということを示しておりました。
「冗談じゃない!様、なんて付けられるとムズムズするんだよ…こんな家こっちから願い下げだ」
こめかみを強く抑え、ツヨシと呼ばれた少年は土足のまま僕の部屋のカーペットの上に座り込みました。
「しかし、そういうわけにも…」
「あなたは、ツヨシというのでございますか」
上半身だけを起こし、僕は思わず口を挟んでおりました。
その返事が出るまでにしばし時間がありましたが、数人の追手は口をはさみませんでした。
「…ああ。ツヨシ。そうだけど」
「そうですか」
怪訝な顔をして答えた少年の、ベッドの上の僕よりいくらか高い背を見上げて、僕は生まれて初めての温かい気持ちになりました。おそらく、その時僕は心から緩やかな笑顔を浮かべていたのでしょう。
それが分からない、と言ったようにツヨシはしばらく僕のほうを見やっていましたが、すぐに彼はおどけて笑ったのでございました。そして僕が「靴ぐらいは脱ぐのが最低限のマナーでございます」と言いますと、苦い顔をするのでした。
それからは誰もその「最低限のマナー」以上のことを彼に強制することはありませんでしたし、彼もそれ以上自分を曲げることはしませんでした。
――ツヨシと出会ってから、僕は随分と体を良くし、両親や家庭教師に性格の方も活発になって良かったと言われました。
学校での話、今日あった楽しいこと、腹が立ったこと、相談事、その他こっそりと宿題を僕に解かせに来たりとツヨシは毎日のように僕の部屋に遊びに来ました。僕はそれが、両親がツヨシにつよしをかまってやるようにという言いつけがあったからだとしても、構いませんでした。
そんなある日、ツヨシは「一緒に外に行こう」と僕に言いました。それが丁度今から三年前のことでございます。
僕は心底驚きましたが、ツヨシもその僕の顔を見ていささか驚いていたようでございました。
可笑しな話ですが、その日その時まで僕には外に出るという考えが全くなかったのです。
「…こういう病弱な奴って、普通外に出たがるもんじゃないのか?」
それはきっと、何かの思い込みでございますよ。
「なあ、じゃあ改めて外に出たいとは思わないのかよ」
僕は窓の外を見て、少し考えてみました。
…少しと自分が思っていたのはツヨシにとっては少しの時間ではなかったようで、すぐにツヨシは考え込んでいたらしい僕をせっつき、そのうちにもういいと呆れてしまいました。
僕は答えの出せなかった申し訳なさが半分、あまりの気の短さに何とも言えない微笑ましい気持ちが半分に、何の気なしに言い訳じみた言葉を吐いたのでした。
「僕には、この家と、その庭までが知れ切る範囲なのでございます
…それ以上の場所を知る意味もありませんから」
今はもう、この家にはツヨシがいるのだから僕がこれ以上外を知っても意味などないと。
ただの、何の重さもない一言のつもりでございました
だからこそ、空気が凍るのに気づけなかった。
「…、じゃあ…」
今でも彼の声が震えていたのにその時気がついていたらと思うことがあります。
「じゃあ、お前はちっとも外の世界なんて知りたくもないなんて、思ってるのか」
今でも、ツヨシの手が強く握られていたことに気づいていたらと思うことがあります。
「ツヨシ?」
「…お前の好きな本の中の話は」
「そんなことは一言も…」
「俺が毎日話したことは!」
「言って、
「それはお前にとって、自分と全く関係ない、本当は興味もない話だったのか!」
気づくべきだったのです。
いくら言いつけで僕に話しかけていたとはいえ、50メートル走が学年で一番だったとか、給食で好きなものが出ただとか、帰りに駄菓子屋を見つけたのだとか、
あんなに嬉しそうに僕の目を見て話すのは、僕がそれと同じ目をしていたからこそだったのだと。
そして、きっと絶対にしてはいけないと言われていたであろう"つよしを外に連れ出"そうとしたその心中にも、気づくべきだったのです。
気づかぬうちに、裏切られたなんて安い言葉で済ませるには余りに僕は彼に酷い仕打ちをしておりました。
「…俺は、所詮お前にとって自分の外の人間だったのか」
ツヨシは長いつばの帽子を目深に被ってそのままそのつばをきゅっと握りました。
もう片方の手は強くシャツの裾に皺を寄せておりました。
つよしがベッドから転落したのはそのすぐ後のことだった。
俺がつよしの手を払ったからバランスを崩してしまったのだ。
俺は、何か言おうとして俺の服を掴んだ細い手を振り払った手がこの肩にひっついているのが悔しくて仕方なくなった。
勿論怒られたのは俺だった、それが当然だと思った。言葉で叱られただけだったのが足りないとさえ思った。
でもつよしは僕がバランスを崩したのが悪かったのだと笑った。
笑っていた。
つよしは足を挫いた。俺がそんな怪我をしたってどこの誰だって心配なんてしなかっただろうが、つよしはその怪我のせいで熱が出て、しばらく入院した。
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空っぽな気持ちになった。
何かが足りないと思った。
どこかに自分を置いてきた気がした。
つよしの豪華で広い部屋に行ってみてもまだあいつはいない。
誰も居ないがらんとしたその部屋はどこかの本で見た挿絵の囚獄に似ていた。
あいつの読みかけていた本を手に取ると、それは珍しく漫画で、俺が面白いと絶賛していたやつだった。
…パタッと音がして、ページの端が黒ずんだ。