明日も 前編
すずめとしては、大学近くに構える店である以上は、知り合いや同じ大学の学生に会うことは予想内だが、しょっちゅう話し掛けられるのはとてもいい迷惑だった。
「あ、の…ごゆっくりどうぞ」
「ちょ、ちょ、ちょ…待って。ごめん…ちょっと待って」
会計の伝票テーブルに置くと、仕事は終わったとばかりに去ろうとするすずめを、先ほどの軽そうな男とは別の、何故か顔を赤らめている男が引き留めた。
「なんでしょうか?」
すずめは手首を掴まれ、睨むように応対すると、男はごめんと慌てて手を離した。
「名前…名前、教えて?」
「与謝野…です」
「下の名前は?」
「すずめですけど?」
「ありがとう。可愛い名前だね。俺、田ノ浦淳平!同じ大学ならどこかで会うこともあるかもしれないし、またこの店来るし!よろしくね!」
「はぁ…よろしくお願いします」
真っ赤になって喋る男、淳平の背中を、2人の友人たちが頑張ったなとバシバシ叩いている。
すずめは訳が分からず足早に立ち去った。
***
獅子尾は、先ほどから店内のテーブル席に座る学生と話をしているすずめを目で追うと、またかと吐息を漏らす。
恋をすると女性は綺麗になる。
聞いたことはあるが、まさにそれを実感していた。
すずめが大学に入ってからだろうか、すずめに艶めいた色気のようなものを感じることが多くなった。
それはふとした時に訪れる。
眠そうに欠伸を噛み殺し、涙で潤んだ目を擦る仕種。
お皿を落としそうになって、顔を赤らめて舌を出す仕種。
仕事に入る前、長い黒髪を後ろで結び、露わになる首筋。
ゆゆかぐらい男をかわす術を身につけていれば別だが、あの様子じゃつけこまれることだってあるかもしれない。
しかも、ここでは諭吉がすずめの叔父であることは知れていて、表立ってしつこくするような輩はいないが、諭吉が席を外すタイミングを見計らったようにすずめに声が掛かるのは、獅子尾の気のせいではないだろう。
それも、自分が心配することではないのだが。
カウンターに戻ってきたすずめに、小さな声で言った。
「気をつけなさいよ…?」
「へっ?何をですか?」
キョトンとした顔で獅子尾を見つめる様子は、高校生の頃と変わっていないように見える。
「いや…色々とさ」
「…?変な先生…」
クスクスと笑うすずめに、何も言えずに溜息を吐くしかなかった。
***
すずめが大学の門を出て、叔父の店へ向かうべく大学前の信号を渡ったところで、忘れ物に気がつき戻ろうとした。
しかし、信号はすでに赤に変わっていて、間に合うかと時計を見ながら通りの向こうに視線を向けると、大輝がいた。
大学内で大輝を見かけることは初めてで、すずめの顔がつい緩む。
大輝は誰かと門の前で話をしていて、それが女性であることですずめの心に不安が広がる。
後ろ姿でそれが誰かは分からなかったが、その女性も信号を渡るところだったようで、大輝にぺこりと頭を下げる。
降り返った顔は、すずめの友人、伊織のものだった。
すずめは忘れ物を取りに行くことも忘れて、伊織に気付かれる前に、踵を返して叔父の店へと急いだ。
大輝から話し掛けていた。
もしかして、伊織と知り合いだった?
大輝と話す伊織は、自分にも覚えのある恋する女の子の顔をしていて、それが一層すずめを傷付けた。
その日のバイトは散々で、諭吉に具合が悪いなら家に帰って寝なさいと早々に帰されてしまった。
***