美由紀
そのことが何を意味するのか、すぐには頭に入ってこなかったが、ネットの向こうで辻本さんが両手を突き上げて喜びを爆発させているのを見て、少しずつわたしは負けたのだ、ということがわかってきた。辻本さんがネットの向こうでわたしに右手を差し出している。試合終了の握手に行かなきゃ。わたしはまだぼーっとしたまま、のろのろとネットまで歩いて辻本さんの右手を握った。
試合後の挨拶のため、両校の団体戦選手がコートに入ってきた。
わたしは辻本さんが飛び跳ねながら宮下中の歓喜の渦に迎え入れられる様子を、呆然と見ていた。
不意に誰かがわたしの背中を叩いた。亜紀だった。
亜紀は真っ赤に泣き腫らした目でわたしに言った。
「すごい試合だったよ。さ、行こ」
わたしの仲間はみんな泣いていたが、中でもしのぶ先輩は挨拶をして観客席に引き上げるまでずっと泣きじゃくっていた。これまで全勝していて、自分も含めて誰もが勝てると思っていた相手に、追いつかれた挙げ句の逆転負けをした。自分のせいでチームが負けた、と思っているようだ。さっき自分が味わった恐怖感を思い出すと、しのぶ先輩の気持ちはとてもよくわかった。わたしはさっき、この試合に負けたらテニス部にもう自分の居場所はない、とさえ思いつめた。今のしのぶ先輩に、そんなことないよ、ってどれだけ慰めても慰めにはならないんだろうな。
選手全員でコーチに報告に行った後、みんなは決勝戦の観戦に移動した。この決勝戦で宮下中が勝って優勝すれば、わたし達と日大二中とで決定戦を戦うことになるが、その可能性はまず低かった。
みんなが決勝戦のコートに向かったのでわたしも一緒に行こうとすると、コーチがわたしを呼び止めた。
「美由紀、今の試合はどうだった?」
わたしは少し考えて答えた。
「第四ゲームと第五ゲームがグダグダでした」
コーチはそれを聞いて笑ったが、すぐ真顔になった。
「そうだな。あの二ゲームのお前は小学生並みだった。あの時はしのぶが負けて自分が決戦になってしまったことが影響していたのか?」
わたしは黙って頷いた。
「団体戦では負けて良い試合はひとつもない。それはお前に試合に向かう心構えができていなかった、ということだ」
わたしはもう一度、黙って頷いた。わたしが「捨石」っぽいオーダーだったことは言わなかった。それが言い訳にはならないことくらいわたしにもわかる。
「でも」
コーチは亜紀がつけたスコアシートを見ながら続けた。
「あの二ゲームであれだけメロメロだったのに、終わってみればタイブレークまでもつれる良い試合だった。それがどういうことか、わかるか」
わたしは首を横に振った。
「お前は、次に辻本とやれば、今度は勝てる、ということだ」
そうなのだろうか。それなら今、この試合を勝ちたかった、と思う。今さらながら悔しさがじわじわと込み上げてきた。
「元々美由紀を二年生でただ一人、団体戦のメンバーに入れたのは、お前が誰よりも負けん気が強いからだ」
コーチはスコアシートをファイルに綴じながら言った。
「これで三年生は引退だから、この秋の大会からは美由紀、お前がエースだ。今日のようなシビれる試合をもっとたくさん見せてくれ」
もう行け、という手振りをコーチがしたので、わたしはありがとうございました、と礼をしてその場を後にした。
荷物のところに戻ると、パパがあの人と一緒にわたしを待っていた。
「すごい試合だったな。シビれたぞ」
パパが笑顔でわたしを迎えた。
「でも負けちゃったよ」
笑おうと思ったけど、うまくいかなかった。
「決勝戦、見に行くのか?」
「うーん、もういいや。多分決定戦はないだろうし」
もし宮下中が勝ちそうなら、亜紀あたりが大騒ぎしながら呼びに来るだろうし。
「そうか」
パパがそう言ったまま、そわそわしてる。わたしはパパの隣に立っているあの人の方に顔を向けながら、ちょっと首をかしげてパパを横目で見た。
パパは緊張しているのか、ちょっぴり上ずった声で私にその人を紹介した。
「美由紀、えっと、こちらは福寿愛美さん。愛美、これは僕の娘で美由紀だ」
愛美と紹介されたあの人がわたしに微笑みかけた。
「美由紀ちゃん、はじめまして。愛美です。よろしくね」
わたしはぺこっと頭を下げた。
「美由紀ちゃん、すごかったね〜。私、感動しちゃったよ。美由紀ちゃんが叫んだときは私も『うぉ〜』って吠えちゃったよ」
愛美さんの応援の方がよっぽどすごかったと思うけど。大人であそこまで感情を入れてくる人には会ったことがないよ。
「でも負けちゃったから」
私がそう言うと、パパが横からわたしをからかうような口調で言った。
「でも、今回は泣かなかったんだな。大泣きするかと思ってたぞ」
そうだ。どうしてだろう。
あまりにも集中しすぎて、まだ心が敗戦を受け入れてないのだろうか。
いや、多分そうじゃない。負けた悔しさはずっと心の奥底に溜まっていて、吹き出すタイミングを狙っている。それを止めているものは・・
「うーん、なんかさ、しのぶ先輩が大泣きしてたから、わたしが泣き損なっちゃったような。しのぶ先輩が、チームが負けたのは勝てるはずの試合を落としちゃった自分のせいだって責任感じてるみたいだから、わたしがいつもの調子で泣いちゃうと先輩がよけい責任感じちゃうかな、って気もするし」
すると愛美さんが微笑みながら言った。
「美由紀ちゃん、優しいんだね」
びっくりした。わたし、優しくなんてない。わたしは試合中も自分の居場所ばかり心配してビビッていたんだ。それに昨日、わたしがママに言ったことも思い出してしまった。それらの自己嫌悪や試合に負けた悔しさが、まるで愛美さんの一言で化学反応を起こしたように突然膨張してせり上がってきた。
「わたし、優しくなんかない」
愛美さんにそう言おうと思ったけど、最後まで言葉にならなかった。嗚咽を止めようと歯を食いしばってみたけど、それも無駄な抵抗だった。
泣きじゃくるわたしを、愛美さんはそっと抱いてくれた。わたしは愛美さんの肩に顔を埋めて泣き続けた。
しばらくわたしは愛美さんの肩で泣き続けた。
泣きたいだけ泣いて腹の底の黒いモノを吐き出してしまったら、少し楽になった。
パパは呆れたように笑っていた。
「相変わらず美由紀は負けず嫌いだなあ」
でも愛美さんは、私がようやく泣きやんで、同時にちょっと恥ずかしくなって愛美さんから離れたとき、私の耳元で囁いた。
「それだけじゃないのよね」
わたしは愛美さんの目を見て、愛美さんにだけわかるように小さく頷いた。
その時、わたしは初めて愛美さんの顔を間近でしげしげと見た。ぱっちりとした大きな目をしているのに、笑うとほとんど線みたいに細くなる。細面できりっとした顔立ちなのに、笑うと不思議なくらい「丸顔」に見える。不思議だ。
よく見ると愛美さんの化粧がずいぶん崩れていた。きっとわたしの試合中、泣いたり叫んだりしていたせいだ。
「あの、愛美さん。化粧がけっこう悲惨なことになってるんですけど」