【青エク】幻影の街角
なぁん。
か細い鳴き声が足元でした。
「ねこ…」
出張所の用事で使いを済ませた帰り道。細い路地を歩いていた宝生蝮は、驚いたように呟いた。猫は好きなのだが、猫の方が滅多に懐いてくれないのが常だ。しかし、今は足元で子猫が、ぽわぽわした毛並みに小さな手足をして、つぶらな瞳で蝮を見上げていた。
「どないしたんや」
おどかさないように、そうっとしゃがんだ蝮の裾にじゃれかかってくる。ねだるような甘えるような、小さな鳴き声が可愛らしかった。いつも嫌がられてしまう記憶に躊躇って、おそるおそる蝮は柔らかな毛並みに触れる。短い尾が激しく左右に揺れた。喉の下を触ると、一丁前にゴロゴロと喉を鳴らしている。
「可愛い…」
嬉しくて思わずにっこりする。猫のほうもそれがわかったのか、ことさら可愛い鳴き声を立てる。頭を掻いたり、顎の下を掻いたりする蝮の手に、猫がじゃれかかる。人に慣れているのか、蝮の指を優しく噛んで、小さな脚で腕を蹴った。
「アンタ、どこの仔や? お母はんはどないしたんや?」
その言葉に、仔猫が急にふい、と離れたかと思うと、更に細い路地裏にとことこと走っていく。
なんや、嫌われてしもうた。
寂しく思ったのも束の間、路地の中からにゃぁ、とさっきの仔猫が呼んだ。
ちょっ、ちょっ、と呼びながら蝮が路地に入り込む。甘えるように鳴いた声が、こっちに来てよ、とねだったような気がした。
「仕方あれへんなぁ…」
蝮は誘われるように路地の奥へ進んだ。
「待って、待ちや」
猫は蝮を導くようにとことこと走る。時々振り返って、ついて来ているか確かめては、一定の距離を置きながら先へ進んだ。
「なんや、子供のクセに追いつかれへん」
町家の狭い入り口。水打ちした石畳。見慣れた京の街並み。車も通れないような道だ。だからと言って人通りがないはずがないのに、人の息遣いも聞こえないほどひっそりとしている。五月蝿いような蝉の鳴き声だけが遠く近く響く。普段なら、かすかに三味線や唄の練習をしている音が聞こえるはずだ。しかし、今日に限ってはそれすらも聞こえない。少し動けばすぐに汗をかく真夏日だが、昼の時間に、車一台、人っ子一人通らなかった。
そんな様子をいぶかしみながら、蝮は仔猫をひたすら追いかけて居た。
出張所の使いと言っても、普段の祓魔師の制服ではない。夏らしく絽に麻の単衣だ。だがそれも猫を追いかけて、狭い路地をあちらこちらと駆けずりまわされて、すっかり汗みずくになっている。
なしてこないに必死になっとるんやろ…。
ふと我に返った途端、足がぴたりと止まった。
「ねこ…」
少し距離を置いて座り込んだ仔猫は、蝮を見据えるようだった。思わずその雰囲気に気圧される。
しもうた…。
物の怪、悪魔に引きずり込まれたのだ。気づいた途端、蝮は蛇《ナーガ》を呼び出せるように印を組んで構える。
にゃぁ。
普通に鳴いただけの声のような気がするのに。気配が怖かった。
蝮の怯えを読んだように、狭い路地に禍々しい空気が濃く漂う。からかうように蝮の周りを取り巻いて、じわりじわりと押し包んでくるようだった。
あかん…。私《あて》の力ではコレだけの数、祓われへん…。
もう使い魔を出すしかない、と思った瞬間、すぅ、と路地から気配が引いた。
「な…、なんや…?」
ほっと安堵の溜め息を洩らした。
「それにしても、ここはどこなんやろ?」
人が通るだけで精一杯の路地から、車がかろうじて通れる道へ出た。見覚えのある通りにほっと安堵の溜め息を漏らす。ここをまっすぐ行けば、大通りにぶつかるはずだ。
そうや、ちょぉ行った辺りに、本能寺さんの石碑があったはずや。板塀に囲まれた古い街並みを歩きながら、目印になるはずの石碑を探す。記憶通りの場所に、まさしく石碑が立っていた。見慣れた石碑をちらりと目の端に捉え、違和感を感じてもう一度良く見た。自分が目にしたものが信じられず、蝮は思わず目を瞬いた。
「なんやのこれ…」
習ったこともないような、へんてこな文字が彫り付けられている。漢字のようでいて、漢字ではない。崩し文字でもない。しかし、もともと彫られていた文字にいたずらしたものとも思えなかった。読めないがそれでもきちんと法則性に乗っ取った文字のような気がする。
ふと気になって周りを見渡した。看板やら電柱の住所表示などを見る。物としては妙に馴染みがあるのだが、やはりどれ一つとして読めるものがなかった。
「ここ…どこやろ…」
一つ異なる所を見つけると、次々と記憶のある場所とは違うところが見えてくる。瓦屋根の端はあんなに反っていただろうか。大通りと思しき方向へ、足早に歩く。本当は走りたかった。けれど、恐怖で足が上手く動かなかった。
大通りに出ても、ぱっと見は自分の良く知っている街並みに思えるが、よく見るとそこかしこで異なる。ビルの途中から中華風に反った屋根が突き出ている建物はなかったはずだ。
それに、空が決定的に違う。さっきまでは腹立たしいほどの青空をのぞかせていたのに、今は真っ白な霧か雲に覆われたようだ。太陽の光だろうか? まばゆい光が霧を通して街並みを照らしている。
蝮は顎に伝う汗を手の甲で拭った。
暑さのせいばかりではなく、良い知れぬ恐怖を感じているせいもあるだろう。
落ち着かんと。
そう思えば思うほど、腹の底から恐怖が沸いて出るようだった。
あかんて。落ち着け。
声の限りに叫びだして喚きたい衝動に駆られる。
張り詰めたような静寂が甲高い金属音のように耳に響いてくる。自分が立てる音以外は全くの静寂だなんてことがあるだろうか?
恐る恐る、知っているような知らないような街並みを歩く。一体ここは何処なんや。人っ子一人見当たらないなんて、尋常ではない。せめて京都出張所まで戻れれば、何とかなるのではないか。
藁にも縋る思いで歩き続ける。
見慣れたはずの史跡が、ほんの少しの意匠の違いでまるっきり知らない、得体の知れない建物のように見える。それが余計に蝮の恐怖を煽る。
「大丈夫や、出張所に着いたらなんとかなる」
声に出して自分に言い聞かせる。その声すらぼわん、と変に籠って聞こえた。音が散ってしまわずに泡に包まれてその辺りにごろんと転がったような聞こえ方だ。
「大丈夫、大丈夫や」
駆け出したいのに、足が上手く動いてくれなかった。着物の裾が纏わりつくようだ。当り前のように動きなれた着物で、足を取られて転びそうに感じたのは初めてだ。何もかもが違う。何もかもがおかしい。
不安で街並みを見まわしながら、必死に京都出張所への道を辿った。見れば見るほど知っている建物との差が浮き彫りになっていくようだ。こうしている間にも角を曲がったら知らない街並みになっているのではないか。気持ちばかりが焦る。
「この角や……」
曲がり角には小さい頃柔造が石で傷をつけた電柱があった。以来十数年ずっと見てきた痕跡だ。こんなに違う場所なのに、知っている跡があるのはおかしいと思わなければならない。それが当然だろう。だが、今は却って安心感を抱かせた。逸る気持ちを抑えて角を曲がった。京都出張所まではあと少しだ。門が見える。見慣れた屋根が覗く。もうすぐや。
か細い鳴き声が足元でした。
「ねこ…」
出張所の用事で使いを済ませた帰り道。細い路地を歩いていた宝生蝮は、驚いたように呟いた。猫は好きなのだが、猫の方が滅多に懐いてくれないのが常だ。しかし、今は足元で子猫が、ぽわぽわした毛並みに小さな手足をして、つぶらな瞳で蝮を見上げていた。
「どないしたんや」
おどかさないように、そうっとしゃがんだ蝮の裾にじゃれかかってくる。ねだるような甘えるような、小さな鳴き声が可愛らしかった。いつも嫌がられてしまう記憶に躊躇って、おそるおそる蝮は柔らかな毛並みに触れる。短い尾が激しく左右に揺れた。喉の下を触ると、一丁前にゴロゴロと喉を鳴らしている。
「可愛い…」
嬉しくて思わずにっこりする。猫のほうもそれがわかったのか、ことさら可愛い鳴き声を立てる。頭を掻いたり、顎の下を掻いたりする蝮の手に、猫がじゃれかかる。人に慣れているのか、蝮の指を優しく噛んで、小さな脚で腕を蹴った。
「アンタ、どこの仔や? お母はんはどないしたんや?」
その言葉に、仔猫が急にふい、と離れたかと思うと、更に細い路地裏にとことこと走っていく。
なんや、嫌われてしもうた。
寂しく思ったのも束の間、路地の中からにゃぁ、とさっきの仔猫が呼んだ。
ちょっ、ちょっ、と呼びながら蝮が路地に入り込む。甘えるように鳴いた声が、こっちに来てよ、とねだったような気がした。
「仕方あれへんなぁ…」
蝮は誘われるように路地の奥へ進んだ。
「待って、待ちや」
猫は蝮を導くようにとことこと走る。時々振り返って、ついて来ているか確かめては、一定の距離を置きながら先へ進んだ。
「なんや、子供のクセに追いつかれへん」
町家の狭い入り口。水打ちした石畳。見慣れた京の街並み。車も通れないような道だ。だからと言って人通りがないはずがないのに、人の息遣いも聞こえないほどひっそりとしている。五月蝿いような蝉の鳴き声だけが遠く近く響く。普段なら、かすかに三味線や唄の練習をしている音が聞こえるはずだ。しかし、今日に限ってはそれすらも聞こえない。少し動けばすぐに汗をかく真夏日だが、昼の時間に、車一台、人っ子一人通らなかった。
そんな様子をいぶかしみながら、蝮は仔猫をひたすら追いかけて居た。
出張所の使いと言っても、普段の祓魔師の制服ではない。夏らしく絽に麻の単衣だ。だがそれも猫を追いかけて、狭い路地をあちらこちらと駆けずりまわされて、すっかり汗みずくになっている。
なしてこないに必死になっとるんやろ…。
ふと我に返った途端、足がぴたりと止まった。
「ねこ…」
少し距離を置いて座り込んだ仔猫は、蝮を見据えるようだった。思わずその雰囲気に気圧される。
しもうた…。
物の怪、悪魔に引きずり込まれたのだ。気づいた途端、蝮は蛇《ナーガ》を呼び出せるように印を組んで構える。
にゃぁ。
普通に鳴いただけの声のような気がするのに。気配が怖かった。
蝮の怯えを読んだように、狭い路地に禍々しい空気が濃く漂う。からかうように蝮の周りを取り巻いて、じわりじわりと押し包んでくるようだった。
あかん…。私《あて》の力ではコレだけの数、祓われへん…。
もう使い魔を出すしかない、と思った瞬間、すぅ、と路地から気配が引いた。
「な…、なんや…?」
ほっと安堵の溜め息を洩らした。
「それにしても、ここはどこなんやろ?」
人が通るだけで精一杯の路地から、車がかろうじて通れる道へ出た。見覚えのある通りにほっと安堵の溜め息を漏らす。ここをまっすぐ行けば、大通りにぶつかるはずだ。
そうや、ちょぉ行った辺りに、本能寺さんの石碑があったはずや。板塀に囲まれた古い街並みを歩きながら、目印になるはずの石碑を探す。記憶通りの場所に、まさしく石碑が立っていた。見慣れた石碑をちらりと目の端に捉え、違和感を感じてもう一度良く見た。自分が目にしたものが信じられず、蝮は思わず目を瞬いた。
「なんやのこれ…」
習ったこともないような、へんてこな文字が彫り付けられている。漢字のようでいて、漢字ではない。崩し文字でもない。しかし、もともと彫られていた文字にいたずらしたものとも思えなかった。読めないがそれでもきちんと法則性に乗っ取った文字のような気がする。
ふと気になって周りを見渡した。看板やら電柱の住所表示などを見る。物としては妙に馴染みがあるのだが、やはりどれ一つとして読めるものがなかった。
「ここ…どこやろ…」
一つ異なる所を見つけると、次々と記憶のある場所とは違うところが見えてくる。瓦屋根の端はあんなに反っていただろうか。大通りと思しき方向へ、足早に歩く。本当は走りたかった。けれど、恐怖で足が上手く動かなかった。
大通りに出ても、ぱっと見は自分の良く知っている街並みに思えるが、よく見るとそこかしこで異なる。ビルの途中から中華風に反った屋根が突き出ている建物はなかったはずだ。
それに、空が決定的に違う。さっきまでは腹立たしいほどの青空をのぞかせていたのに、今は真っ白な霧か雲に覆われたようだ。太陽の光だろうか? まばゆい光が霧を通して街並みを照らしている。
蝮は顎に伝う汗を手の甲で拭った。
暑さのせいばかりではなく、良い知れぬ恐怖を感じているせいもあるだろう。
落ち着かんと。
そう思えば思うほど、腹の底から恐怖が沸いて出るようだった。
あかんて。落ち着け。
声の限りに叫びだして喚きたい衝動に駆られる。
張り詰めたような静寂が甲高い金属音のように耳に響いてくる。自分が立てる音以外は全くの静寂だなんてことがあるだろうか?
恐る恐る、知っているような知らないような街並みを歩く。一体ここは何処なんや。人っ子一人見当たらないなんて、尋常ではない。せめて京都出張所まで戻れれば、何とかなるのではないか。
藁にも縋る思いで歩き続ける。
見慣れたはずの史跡が、ほんの少しの意匠の違いでまるっきり知らない、得体の知れない建物のように見える。それが余計に蝮の恐怖を煽る。
「大丈夫や、出張所に着いたらなんとかなる」
声に出して自分に言い聞かせる。その声すらぼわん、と変に籠って聞こえた。音が散ってしまわずに泡に包まれてその辺りにごろんと転がったような聞こえ方だ。
「大丈夫、大丈夫や」
駆け出したいのに、足が上手く動いてくれなかった。着物の裾が纏わりつくようだ。当り前のように動きなれた着物で、足を取られて転びそうに感じたのは初めてだ。何もかもが違う。何もかもがおかしい。
不安で街並みを見まわしながら、必死に京都出張所への道を辿った。見れば見るほど知っている建物との差が浮き彫りになっていくようだ。こうしている間にも角を曲がったら知らない街並みになっているのではないか。気持ちばかりが焦る。
「この角や……」
曲がり角には小さい頃柔造が石で傷をつけた電柱があった。以来十数年ずっと見てきた痕跡だ。こんなに違う場所なのに、知っている跡があるのはおかしいと思わなければならない。それが当然だろう。だが、今は却って安心感を抱かせた。逸る気持ちを抑えて角を曲がった。京都出張所まではあと少しだ。門が見える。見慣れた屋根が覗く。もうすぐや。
作品名:【青エク】幻影の街角 作家名:せんり