【青エク】幻影の街角
我慢できずに蝮は門を走り込んで、京都出張所のはずの建物を見た。
「なんや……」
古い日本家屋のはずが、あちこちから余計な柱、どうみても建物の構造上からは不必要な瓦屋根が突き出している。蝮が知っている京都出張所とは似ても似つかない。
「そんな……」
言葉を失う。ここへ来れば何とかなると思って居たのに。それだけが頼りだと思い詰めていたのに、掴んだ綱を断ち切られたような気持だった。
よろりとよろけた。たたらを踏んだ身体が、どすん、と何かにぶつかった。
「おっと。なんや危ないな」
聞きなれた声に振り向く。珍しく私服を着た柔造が立っていた。
「……さる……?」
「お前蝮か? 本物やろな?」
柔造は今日休みだったはずだ。数日前からウキウキしながら、山へ修行に行くと言っていたはずだ。修行と称して山に登るのが大好きらしいが、それのどこが良いのか蝮にはさっぱり理解できない。
「アンタ、なんでここに……」
それはともかく朝早くから出かけたはずだが、なぜこんな所にいるのか。蝮は何時でも使い魔を呼び出せるように印を構える。柔造の姿をした悪魔かも知れない。
「物騒やな」
蝮の警戒した態度を見て、柔造は困ったように笑う。
「それがなぁ、どうにも京都から出られへん」
いつものようにまだ夜も明けない内に家を出たらしいのだが、いくら歩いても駅に着かず、堂々巡りのように家の前に戻ってきてしまうのだと言う。何度か試して、やっと街並みが違うことに気付き、良く判らない場所に入り込んでしまったと結論付けたらしい。参ったなぁ、と言う口調は明るくてちっとも困っているように感じられない。
「そこまで気付けへんて、アンタ、ホンマ祓魔師か」
憎まれ口を叩きながらも、心底ほっとしている自分に気付く。悔しいが一人ではこの状況に耐えられなかっただろう。
「やかましわ。お前こそこないなとこでなにしとんねや」
「あ、私は……」
猫につられたとは言えず、言い淀む。
「大方猫でも追いかけとったのやろ」
「なっ……!」
バカにしたような口調で見事に言い当てられて、カッと頭に血が上った。思わず手を振り上げて、柔造の頬を叩こうと振り下ろす。だが、頬に当たる前に柔造に止められていた。力強い大きな手で捕まえられて、振り解けない。
「はな……っ」
「泣きそうな顔して歩いとった」
額がくっつきそうな近くで、柔造がぼそりと呟く。優しく身体が引かれて厚い胸板に抱かれていた。
「じゅうぞ……」
「お前の不安そうな顔、どないしよ、思うた」
痛いほどに抱き寄せられる。蝮は一瞬何が起こったのか判らなかった。
いや。判っていた。だが、それをどう理解して良いのか判らない。柔造に対して自分は特殊な感情を持っている。持て余してしまうほどに強いそれだ。上手く隠すことも、素直に言うことも出来なくて、ついケンカ腰になってしまう。そんな自分を柔造は嫌っていると思って居た。
男女問わず慕ってくる人の中心に居る男、それが志摩柔造だ。彼がそう扱われる理由は良く知っている。人当たりが良くて、優しくて、面倒見が良い。頼りがいのある男だ。人が集まらないわけがない。
だが、自分と柔造の関係は違う。顔を合わせれば険悪な顔をし、口汚い悪態を吐き、時には法力任せに喧嘩までする。おそらく彼の周りにいる人間で、ここまでいがみ合う間柄の人間はいないだろう。
だから……。
蝮ははたと一つの結論に辿り着いた。
「……柔造やない」
背中に手を回して、抱き付きたいのをぐっと堪えて、身体を離そうともがく。そうだ、これは柔造ではない。自分だか、この良く判らない街だかが作り出した幻影に違いない。こうであって欲しい、こうなって欲しいと言う蝮の心をどうやってか読んだのだろう。
柔造ではない。だから優しい。だから自分を抱き締めてくれる。
そう思ったら、途端に悲しくなった。胸がぎゅうと締め付けられるような痛みが襲う。
「何言うとる、蝮」
心配そうな顔で蝮の顔を覗き込んでくる。心臓の音が聞こえるほど抱き寄せられて、こんな間近で、こんな優しい顔を見たことなんてない。
そう、自分が柔造に受け入れられることはない。それだけのことをずっとしてきた。
どれだけ自分が柔造に想いを寄せようと、向こうは自分のことなど歯牙にもかけないだろう。
だから、こんなことが現実には起こるはずがない。
「ちょ、離し」
腕を力の限り突っ張ろうとする。だが、柔造の腕ががっちり自分の身体に回ったままだった。
「落ち着け、蝮」
ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。
「悪魔やあるまいし、そないに嫌がらんでもエエやろ」
する、と柔造の手が蝮の頬を撫でた。何かが化けた姿であっても、柔造の顔と声でこんなことはされたくなかった。それだけ、現実が惨めに思える。
「嘘や。柔造がこんなに優しワケない。幻覚や。この街の悪魔かなんかが生み出した幻や。私は騙されたりせんえ!」
あらん限りの力で柔造の腕から逃れようともがく。柔造ほどでないにしろ、深部一番隊隊長として、祓魔師としてそれなりには鍛えている。それなのに、柔造の身体はぴくりとも動かなかった。それでも、今目の前にいる柔造が本物で、全てを曝け出して身を委ねてしまいたい、と願う自分の心を断ち切るように、力を一層籠める。
自分が情けない。
こんな幻影を見てしまうほどに、目の前の相手に気持ちを伝えてしまいたい。
「お前、俺をなんやと思うてねや」
ぶは、と柔造が吹き出して、押しのけようとする蝮の力などないかのように、ぎゅ、と更に抱き寄せた。
「まむし」
耳元で、低く優しい声に名前を呼ばれただけで、身体から力が抜けるような気がした。壊れ物を扱うようにそっと顔にかかった髪が梳かれる。大きくて熱いほどの手が頤をなぞった。
身体の奥底から想いを寄せる相手に受け入れられたいと思った。自分の想いの全てを伝えたい。そして今されているように優しく抱かれ、触られたかった。
そんなこと……、望んでも起これへんことや。
縋り付きたくて仕方ない手を必死に留める。
そんな葛藤を知っているのか、柔造の親指が頬を何度も何度も愛おし気に撫ぜた。それだけで辛うじて抑えている理性が吹き飛んでしまいそうだ。
「なんや、お前のほっぺた。こないやわこいて、けしからんやろ」
困ったように笑った柔造が、蝮の頬に柔らかく歯を立てた。言い知れない震えが全身に走ったかと思うと、突然光にでも撃たれたような気がして、何もかも全てがどうでも良くなってしまった。
これは幻や。なら何したってええやろ。
都合のいい幻に甘えて、後で後悔するかも知れない。ちらりとそんな考えが脳裏を横切る。だが、折しも蝮の頭の中で『好きにしちゃいなYO☆』と言う、普段なら思いも浮かばない軽薄な言葉が聞こえた。これまた普通ならそんな言葉に頷く訳もないはずの言葉に、不安などあっさりどこかに押しやられ、目の前の男に触れることしか考えられくなっている。
「じゅうぞう……」
なんや、と答える少し掠れた声に全身がぞくぞくと痺れた。少し柔造の頬が赤く染まっている。身体の奥から凶暴な何かが吹き出しそうだ。そうだ、これは幻なのだ。好きにしたって良いのだ。
作品名:【青エク】幻影の街角 作家名:せんり