手の鳴る方へ!
胸の奥に火が灯る。もう雨も煙草もどうでもいい。帝人が静雄の名前を呼んでいる。それだけで舞い上がってしまいそうな自分の足を地面に縫いつける。駆け寄ってくる小さな姿から目を逸らすこともできない。
彼は制服姿のままだ。柄を掴む手は白く湿っていて、濡れた袖口が寒そうだ。
「どうして傘さしてないんですか?」
心配そうに傘をさしかける、その足元は一生懸命背伸びをしている。その姿は可愛くて可愛くて、腕の中に囲い込んで閉じ込めてしまいたいほどに愛しい。
実行すれば、この腕はきっとその体を折るだろう。そして残るのは、取り返しのつかない慚愧と後悔に決まっている。この愛しさが悲しみに変わる前に、終わらせるべきだった。正しい道はいつだって厳しい。どうあっても逃れられないとわかっているから、尚更。
小さな傘は、雨を完全に遮断することはできなかったが、それでもそこは暖かかった。守りたくなるほど。手放したくなくなるほど。
「静雄さん、酔ってます?」
「少し飲んだだけだ」
味さえ覚えていない。憂さ晴らしにもならなかった。
「それは酔ってるってことです」
苦笑の底には誤魔化しではなく許容が見える。なんだか泣きたくなった。当たり前のようにやさしさをくれる彼に。このやさしさに慣れてしまった自分に。だが、十代の子どもならともかく、大の男が泣くのはおかしい。それ以上に、情けない姿を見られたくない。せめて最後までかっこつけていなくては、立つ瀬が無い。そして、もしもそれさえ受け入れられてしまったら、きっとこれからの寂しさに耐えられない。
「お前、こんなところでなにしてるんだ?危ないぞ」
「待ってたんです。静雄さんを」
こんなに真正面から人を見つめられるのはこいつくらいだ。笑顔を消して、少し緊張した面持ちを無防備に晒して、こんなにも彼は。滑らかな頬は白い。街頭の光が黒目に写り込んできらきらしていた。
「僕は、あなたが好きです」
駄目だ。
頭の血管が切れそうだ。喉が強烈に乾く。かっと熱を持つ四肢が、目の前に差し出された分不相応なものを求めて騒ぐ。ようやく欲しいものが目の前にあるのに、どうして我慢しなければいけないんだ。イカれた思考が、頭の隅からじわじわと広がって、制御できない。
「帝人」
言葉を探す。傷つけずに、離れるために。欲望に震える手を、ポケットに押し込んで抑え込む。
「なんでそんな顔をするんですか」
いつのまにかその瞳は水の膜を張って、揺れている。それは、こちらが問いかけたい言葉だった。そんな顔をしてはいけない。獣に食われてしまう。瑞々しく健やかな若木はそのまままっすぐに伸びていくのが一番いいのだ。狂った街に飲み込まれる前に、逃がしてやらなくては。
ひたひたと這い上がってくる狂気が、ただでさえ細い我慢の境界線を揺さぶる。ならば、手に入れて、守ってやればいいじゃないか。自分のものにしてしまえ。誰も手出しができないように。
「あなたの本当の気持ちを言ってください。他はいらない。お願いです」
走り出した鼓動が止まらない。加速する。
傘の端からしたたる水滴が、髪の一束に落ちて、上気した頬を伝い、折れそうな首元へ吸い込まれていく。力強い眼差しは、雨にも光にも侵せない意志で輝いていた。どうしようもなく欲情を誘そう姿なのに、か弱い身体とはアンバランスな揺ぎ無い瞳は、静雄が持つものとは別種の力を宿している。綺麗だった。
ふつり、と聞きなれた音を聞いた。
これを手に入れられるなら、どんなに惨めな未来が待っていてもかまわない。
「静雄さん」
帝人が小さな手のひらを伸ばす。
その手を。
※
「それで君はまんまと飛んで火にいる夏の虫を実演したと。いや、この場合、虫はシズちゃんの方か」
「僕は静雄さんが好きなだけです」
「好き、ねえ……」
典型的な一般人にしか見えない竜ヶ峰帝人が、ダラーズの創始者という肩書き以上の可能性の片鱗を垣間見せる瞬間がある。
非日常に異常なほど強烈な憧れを抱く癖に、彼の格好も振る舞いも何もかもが池袋にそぐわない。一度、正臣が「せめて髪を染めてみたら、お前もちょっと垢抜けるんじゃねえの?」と言ったときの彼の答えを、臨也は覚えていた。「そんなことして何の意味があるのさ」
人が自分の外見を変えてみる理由の大半は、ささやかな『日常』から脱却のためだ。気分を変えるため。何か変わるかと思って。そんな漠然とした『非日常』への欲求のため。その結果何が変わるかは、本人もわかっていない。
だが、帝人はそんな誤魔化しのような『非日常』は求めない。そして、彼は慎重だ。常に目的のためにすべきことを考えて、それを成す。アタリマエのことだが、それを一部の隙なく、その上無意識で行っている人間はあまりいない。
ダラーズがただの冗談の域を超えたのは、その土台があったからだ。成功すると信じていなかったにせよ、あれだけのメンバーを収容できるものを考え、組み上げた人間。彼には何かがある。そう思ったから、甘楽は田中太郎を監視してきた。そして、折原臨也が竜ヶ峰帝人を出会い、それが何かが見えた気がしていた。
彼には『非日常』に対する敬意がある。彼を構成するすべてはありきたりなものなのに、どこか一般人の枠をはみ出す。
それは、その行動力と整合性に起因している。
本当に意外な掘り出し物だったと思う。だからこそ、その帝人が『好き』なんて曖昧な感情のために動いたなんて、臨也は信じない。
「シズちゃんのどこが好きなの?」
かつて帝人が想いを抱いた園原杏里はどこか浮世離れした少女だった。静雄は一般人やその日常から一番遠くにいる。やはり、『非日常』への渇望が恋心に変じたのだろうか。
帝人は、静雄が力を制御できずに傷つけられることを本当に気にしていない。臨也に帝人を利用する心積もりがあることを知っていても、生ぬるい関係を続けているように。自分を『非日常』に連れていってくれる人間なら、誰でもいいのではないか。ならば、なぜ静雄なのか。そこがどうしても納得できなかった。
「臨也さんが面白がるような理由はありませんよ」
「それは聞いてから俺が判断する。いいから言いなよ」
「静雄さんって、暴力振るった後泣きそうな顔をするじゃないですか」
「それでほだされたってこと?それってただの同情じゃないか」
「いえ、違います。怒って暴れてあんな顔をするんなら、好きな人を傷つけたら、どんな顔をするんだろうと思ったんです。泣くんでしょうか。静雄さんは純粋だから、涙もきっときれいだと思うんですよ。僕はそれが見たい。そして、ずっと独り占めしたいんです」
竜ヶ峰帝人は、歪みなど知らないように頬を染める。
折原臨也は、生まれて始めて平和島静雄を哀れだと思った。