未来への報償②
夜の道を行く人 後編
ばしゃり、と水をかき分けるように歩く音が、木手の耳に聞こえた。平古場が近づいて来ていることが分かったので、振り返るべきかどうするか迷っていると、背中に強い衝撃が走った。バランスを崩した木手はそのまま前へ、海の中へと倒れこんでしまった。
余りにも強い衝撃と、不意打ちの所為もあって腕をつくことも出来ず、水深は浅い場所ではあったが、しかし全身がずぶ濡れになるには十分の深さだった。
海から顔を出して、息を思い切り吸い込めば、口の中が塩辛くて、その苦さに眉を顰めた。苛立ちを顕にした顔で、崩れた前髪をかき上げながら、膝を突いた状態で振り返れば、木手を倒した張本人が険しい顔で睨みつけていた。
背中の衝撃から想像して、蹴られたのだという事は分かった。理由も無く蹴られたことも、その所為で海に倒れこむ羽目になり、ずぶ濡れになってしまったことも、全ては平古場の所為なのだから、木手が怒りを抱くのはもっともだった。
けれど、平古場の表情には木手以上の怒りがあった。不快感も露わな剣呑な目付きで、木手を見下ろしながら、平古場はゆっくりと一つの言葉を口にした。
「惨めな姿、何時までも晒してんじゃねぇよ、永四郎」
いつもより低く響いた声が、より平古場の怒りを露わにしていた。その侮蔑の篭った声に、木手は双眸を細め、平古場とは正反対の冷ややかな表情を浮かべた。
「どういう意味だ?」
いつもの敬語が取り払われた口調の木手からは、本気の怒りだけが滲み出ている。いつもの冷静沈着な仮面が剥がれ落ちて、木手の中で眠っていた激情が顔を出していた。
普段は決して見せることのないその激情を目の当たりにして、平古場はやっと木手の本心に触れられた気がした。
「言葉の通りやっし。やー、さっきから何回溜め息ついたと思ってる」
「……っ、それは」
「うぜぇんだよ。何度も何度も、溜め息ばっかり吐きやがって」
「別に、何度溜め息を吐こうが俺の勝手です」
平古場の勢いに怯んだのか、先ほどまでの激情が薄れ、開き直ったかの様な発言を木手は口にした。そんな木手に対して、平古場は一層怒りを込めて怒鳴りつけた。
「うぜぇっいっちょーさやんやー! それに、今のお前を見てたら、わったーが戦って来た今までの試合が惨めに思えてくるんだよ」
はっとした様な表情で、木手は平古場を見つめた。
怒りも、悲しみも、やるせなさも、心が砕けそうなほどの辛さも、全部木手だけが背負っている訳ではない。
「わったーは、全力で戦った。負けたくとぅを悔しいとうむってても、それを恥じたりしてねーらん」
真っ直ぐに、暗闇でも強く輝く瞳が木手を射抜く。
「やーは、どうなんだ」
木手は、手を突いた先にある海底の砂を握り締めながら、奥歯を強くかみ締める。木手自身、負けたことを恥じてなどいなかった。けれど、悔しいというそんな単純な思いだけが、木手の胸中にあるわけでもなかった。
全国大会での戦いが脳裏を過ぎる。レギュラーメンバーの試合、彼らが負けた瞬間の表情や佇まい、早乙女の罵声、そして木手自身が敗北した試合、その全てが脳内に鮮やかに再生された。
勝つために戦った。
勝つために努力を重ねてきた。
勝つために非情な手段を選んだ。
全ては、勝つために。
ただ一つの信念を胸に。
それだけの為に、積み上げてきた多くのものがあった。
そうして積み上げてきたものがあった。それは、いつの間にか木手一人だけのものではなくなっていた。
比嘉中の部長として背負ってきたものが、気がついた時にはあまりにも大きく重く木手自身に圧し掛かっていた。過酷な練習やラフプレーを強要しても、全国大会優勝という結果は得られなかった。
きっと木手一人だけなら、こんな風に悩むことなんてなかった。
ずっと長い間、降り積もって来たものがあった。
信頼、チームワーク、友情、自信、そして勝利に対しての強い想い。
木手は部長として、部員達に、全国大会でもっと別のものを見せたかった。
勝利という栄光を。
それを与えることが出来なかったという事実が、ずっと木手の心の奥底に蟠っているものだった。
「答えられないんだな……」
消えそうなほど細い声で呟いた平古場の声は、木手に届くことはなかった。
ゆっくりと木手から視線を外して、目を閉じ強く拳を握り締めた。
もう、こんな木手を見ていたくなかった。
「くぬ程度か? やーの目指してたものは、くぬ程度のものなのかよ!?」
絞り出すような声は、風にかき消されそうだった。
いつだって、揺ぎ無い精神と孤高のプライド、そして誰にも汚すことの出来ない強く美しい精神性を持つ木手に、平古場は憧れてきた。
そんな木手が、好きだった。
平古場の中で、いつの間にか育っていた感情があった。
全国大会で比嘉中の最後の試合が終わった瞬間に見た木手の姿が、平古場の脳裏に焼きついて今も離れない。その後ろ姿を見た時に、平古場の中で芽吹いていた感情の、本当の意味を理解した気がした。
ずっと長い間、チームメイトとして友人として傍にいた。傍にいれば、木手の言うことに腹立たてることもあったし、ゴーヤで無理やり命令に従わされることだって日常茶飯事だった。そう考えてみると、平古場の思い通りにならないことばかりだった。けれど、そんな木手を見限ることなくずっと傍にいた。
どうしてなのか、ずっと分からなかった。
嫌いな奴の傍にい続けるほど、平古場は出来た人間ではなかったからだ。
全国大会優勝が目標だと木手から聞いた時は、面白くも無い冗談を真顔で言う馬鹿だと思っていた。これっぽちも信じてなどいなかった。だが、試合を重ねる度に平古場の強さが、ひいては比嘉中が強くなっていっていることを実感した。そして、九州の強豪である獅子楽を倒した時、それは確信へと変わった。
木手に対して、印象が変わったのはその時からだったと思う。
木手の本気を初めて実感した。だから、木手が目指すものが、自然と平古場の目指すものになっていた。
その時始めて、平古場の目標が木手と重なった。平古場だけでなく、テニス部のメンバー全員だったかもしれない。
比嘉中テニス部の部員達が、全国大会出場の目標のもとに団結した。どうしてだか分からないが木手には、傍にいれば必ず叶うと信じさせる何かがあった。そして、苦難の日々を乗り越えて、全国大会へと辿りついた。沖縄と変わらない、寧ろ暑いのではないかという気温の中、比嘉中の全国への挑戦が始まった。
六角中を倒し、そして青学との試合。根拠なんてものは無かったが、このまま勝てると思った。
何故なら、木手と比嘉中の部員達と、築いてきた時間があったからだ。それが、平古場の自信に繋がっていた。
結果は負けてしまったけれど、決して全国は届かない場所ではないと実感した。未知の強さを持つ選手達が、平古場の目の前に立ちはだかっている。それを知ってテニスがもっと面白くなった。
負けたことへの悔しさや辛さもあったけれど、平古場の胸に沸きあがった感情はそれだけではなかった。期待と興奮、未知への期待ともっと強くなれるという自分自身への可能性だった。