未来への報償②
木手の傍にいれば、もっと強くなれる。そうずっと感じていた。
けれど、今の木手からはその気配を感じることが出来なかった。それが平古場を酷く苛立たせた。もしかすると、ただ寂しかっただけなのかもしれない。
大切なものを失くしてしまいそうな気がしたから。
負けたことを恥じたことも、惨めに思ったこともない。何故なら、木手と過酷な練習を耐え偲んできた日々があるからだ。部員達と共に苦楽を共有してきた日々が平古場にあったからだ。
それがあったからこそ、平古場はあの日あの場所で、全国の広さを知ることができた。今まで、比嘉しか興味が無かったけれど、全国大会を経験して視野が大きく広がった気がした。
もっともっと、強い奴と戦える場所があるのだと分かった。
全国大会が終わったからといって、平古場達のテニスが終わったわけではない。次のステージに向うだけだと、木手にも分かって欲しかった。
強い風が吹いた。
まるで、平古場の感情を体現しているかの様な、強い風が木手へと向って流れる。
その風に導かれるように顔を上げれば、強い怒りの篭った瞳が木手を見据えていた。
「いつまでそうしているつもりやっさー。立てよ」
押し殺した怒りが風に乗って伝わってくる。その殺気にも似た気配に木手は息を飲み込んだ。
「全国大会の、あの試合よりも、今のお前の方がずっと無様だよ」
一歩、海水の中を木手へと近づく。
ぱしゃり、と撥ねた水音が妙に耳に鮮明に響いた。
「そんな姿、新垣や他ぬ奴らに見せるな。くり以上、みっともない醜態さらすんじゃねぇよ! やーぬそんな姿見たら、わったーまで惨めだって認めることになるだろ!!」
その言葉に、木手は眉間に皺を寄せた。
「やーは、比嘉の部長やっさー! だったら、何時までも下向いてんじゃねぇ!!」
平古場は怒っているはずなのに、その表情はどこか悲痛さが滲み出ているようでもあった。
「不安がってんじゃねぇよ!」
その言葉に、木手の胸にある心臓が大きく撥ねた気がした。体に熱い血が急激に巡る感覚に、眩暈すらしそうだった。
反応のない木手に苛立ち、無理やり立たせようと襟を掴みかけた瞬間、逆に平古場のほうが腕を掴まれた。
はっきりと認識できたのはそこまでで、強い衝撃と冷たい水の感触が同時に平古場に襲い掛かった。
何が起きたのか分からなかった。
視界には夜空。頬の痛みと熱。背中や体のいたるところにあたる冷たい感触。
それらの順番で感覚が平古場へと戻ってくる。
――ああ、殴られたのか。
まるで人事の様な感想が浮んだ所へ、怒りの篭った低い声が夜の海に響いた。
「誰に向って言っている」
平古場の視界には木手の表情は映らない。けれど、分かってしまった。
今、どんな顔で平古場を睨みつけているのかを。
ゆっくりと起き上がり、目の前に立つ男の顔を確認する。そこには、予想していた通りの男が立っていた。平古場が、そして部員達が信じて、一緒に戦って来た木手がそこには存在していた。
勝つためならたとえどんな手段だろうと選ばない。
殺し屋と呼ばれる男が、そこにはいた。
平古場は、自然と感情が高ぶってきていることが分かった。思わず笑い出しそうになるほど、嬉しさが胸を駆け巡る。
「やぁーと、やーらしくなってきたな」
立ち上がって、木手に向って走り出す。殴られた仕返しに殴りつけようとしたけれど、あっさりと受け止められてまた海へと転がされる。けれど、今度は木手の手の内は分かっていたので、転がされるタイミングで足を思い切り蹴りつけた。バランスを崩した木手は転ぶのを堪えようとしたけれど、腕を平古場に掴まれてしまって、同じように海へと転がる羽目になってしまった。
再度、全身水浸しになってしまった木手は、平古場を睨みつけたけれど、原因である本人はニヤけた顔で、楽しそうにこちらを見ているだけだった。
「すっきりしたか?」
そう問われて、木手は溜め息を漏らした。けれど、それは先ほどまでとは違い、呆れたような溜め息だった。
上半身だけ起き上がり、額に張り付いている濡れた髪を掻き揚げながら、木手は眉間に皺を寄せてもう一度平古場を睨む。
「……濡れました」
「いきがの癖にちいせぇこと気にさんけー!」
笑いながら同じように起き上がった平古場は、手を後ろについて「海に入るの久しぶりだな~」と呑気なことを言っている。完全に毒気を抜かれた木手は、平古場から視線を外して夜空を見た。
平古場から言われた言葉の通りだと思った。
心に蟠っていた重苦しい感情が、今はまったく感じられなかった。それが誰のおかげかなんて、素直に認めるのは癪だったから、礼なんてものは絶対する気にはなれなかった。
平古場に"立て"と言われた瞬間、木手の中に押し込められていた感情が一気に溢れて、衝動が怒りとなって全身を駆け巡った。
頭では理解していたつもりだった。
全国大会で負けた事実は変わらないのだから、その結果を受け入れて、また勝ち上がるために練習を積み重ねていこうと、そう決意を新たにしていたはずだった。
けれど、心に蟠る感情が前に進むべく足を重くしていた。それが、溜め息として表れていたのだろう。
だから、平古場の言葉を聞いて改めて気がつかされた。
テニスを、勝利を渇望する気持ちが消えていないことに。
視線だけで平古場を見返せば、先ほどまでとはうって変わった真剣な瞳が待ち受けていた。
「にふぇーど、永四郎。わんを全国大会まで連れて行ってくれて。全国に行けてよかった」
強気な、それでいて屈託の無い笑顔を平古場は浮かべた。その笑顔に木手は言葉を失って、ただ見つめ返すことしか出来なかった。
「また一から出直しさぁ。つぇー奴らと戦って今度こそ勝つ!」
全国大会の試合を思い出しているのか、瞼を閉じた平古場の顔を見ていると、良く分からない感情が胸の奥でざわめく。
嬉しいような、泣きたいような、苦しいような、痛いような、いくつもの入り乱れた感情が木手を襲う。
楽しそうに笑う平古場の表情と言葉が、何度も木手の中でリフレインする。「全国に行けてよかった」その言葉が体を巡る。
晴れやかな笑みを浮かべる平古場を見ていると、何故だろう。抱きつきたいような、抱きしめたいようなそんな衝動に駆られた。
平古場に、触れたいと思った。
「…………っ!」
辿りついた感情の意味を理解した瞬間、木手は目を見開いて、思わず間抜けな声を発しそうになった口手を塞ぐ。自分自身の思考が行き着いた先が、あまりにも突拍子も無いことだったので、内心驚きを隠せなかった。視線を急いで平古場から地面へと映す。
鼓動が早鐘を打つ。また、血が体を駆け巡る。
顔が、体が、熱を帯びたようにアツい。
横目で盗み見る様に平古場を見た。恐る恐る視線を向けた木手と、平古場が瞳を開いたのは同時だった。
視線が重なった瞬間、木手は立ち上がり平古場に背を向けて歩き出した。
「永四郎?」
声だけで追いかけてきた平古場に、答えるように動きを止めた。ただし、振り返ることはせず、行く先を見据えたままで。