未来への報償④
「それなら、簡単に私の手の内を見せることは避けたい。そう思うのは当然です」
「やってみなきゃ、わからねぇだろ!」
「分かりますよ。君達と、どれだけテニスをして来たと思っているのですか」
「っ! それでも!」
「君はそうやって私を責めるけれど、それに屈した甲斐クンにだって責任はあると思いませんか?」
木手は平古場自身も心のどこかで思っていたことを、容赦なく目の前に突きつけてくる。反論する言葉を奪われて、視線を地面へと落とした。それでも、二人の関係を知ってる平古場には、木手の言葉に納得することは出来なかった。
「……お前に逆らえないこと、知ってるだろうが」
「はぁ……。君はどれほど馬鹿なんですか? それが出来ないなら、この合宿で生き残ることは不可能です。遅かれ早かれ、リタイヤすることになったでしょう」
「やーは、それでいいのか!」
本当にそれで納得しているのかと、木手の腕を掴んで揺さぶる。
その瞬間、木手の瞳から一切の感情が消えた。
冷え切った瞳は、その奥深くを覗き込もうとしても、ただ深く暗い闇しか見えなかった。平古場は、無意識に木手を掴んでいた手を放していた。その瞳の闇に捕われたかの様に、視線を外すことも、身動きを取る事さえ出来ない。
胸騒ぎがする。
恐ろしいほどの不安が胸を侵食し、木手の次の言葉を聞きたくなくて、耳を塞いでしまいたいのに思い通りに体が動かない。心臓を打つ鼓動の音だけが大きく体の中で響き、体の中心から外側に向って急激に体温が冷めて行くのが分かった。
そして、木手の返答は平古場をより深い闇の淵へと追い込む。
「俺に、馴れ合えと?」
木手の氷の様な声に、平古場は息が止まった。頭の中が真っ白になる。
「馴れ合って、仲良しテニスをしろとでも?」
平古場へと嘲笑を向けるその瞳は鋼の様に冷たく硬かった。口を開いても酸素が喉を通って肺へと届かない。息苦しさに胸が苦しい。
「そんなテニスがしたければ、それこそ他の学校の生徒達と楽しくすればいい。きっと、そう思っている輩は沢山いるでしょう。私は、君達と過ごす日々だって馴れ合ってるつもりはありませんでしたよ」
言葉がまったく出てこなかった。木手の言葉は耳から聞こえているはずなのに、脳が認識を拒否しているのか、何を言っているのか理解出来なかった。木手の形の良い唇から紡がれる言葉は、鋭利な刃物となって平古場の心に傷を一つ、また一つと刻んでいく。
「私が、君達に負けたことが一度でもありましたか? 君達と対戦して手を抜いたことは? そんなこと、一度だって無いはずです。私は、いつだって本気で君達を倒すつもりで試合をしてきました。それを君達が分かっていなかったのなら、認識を改めることです。そんな甘い気持ちで、テニスをしてきたわけではありません」
全ての言葉が矢の様に突き刺さる。
平古場は木手の言葉を聞いてやっと、甲斐との試合で木手が言い放った"わかっていますね"という、その言葉の本当の意味を理解した気がした。
全てを捨てる覚悟が木手にはあった。ただ、それだけだ。
これは決別なのだと、ずっと心のどこかで見ない振りをしてきたものが現実として目の前に現れただけだった。
それは仲間から敵へと変わる平古場達への、最終確認。
けれど、"馴れ合う"というその言葉には腹がたった。ずっと沖縄の地で、早乙女の理不尽で過酷なスパルタを、共に乗り越えて来た仲間だと思っていた。平古場達だけがそう思っていたのだろうかと、悲しみと悔しさが胸に込上げてくる。
そう考えていたその時、ふいに平古場の脳裏に浮かび上がった記憶があった。
過酷なスパルタ練習に負けそうになった時に、部員達を鼓舞する声を。
全国大会の青学との試合が終了した後で、木手が見せた悲しげな横顔を。
そして、夜の海で木手が見せた溜め息の意味を。
他にも沢山の仲間と過ごした日々が脳裏を駆け巡る。そこに、部員を大切に思っていない比嘉中の部長はいなかった。いつだって、やり方は独裁的だったかもしれないが部員達を大切にしていた。
そう、"大切に守られていた"のだと気がついた。
そしてもう、木手は比嘉中の部長ではないことを思い出す。
仲間という言葉に平古場はきっと捕われすぎていた。知らず知らずのうちに、いつまでも同じ関係でいられると勝手に思い込んでいた。
「……わっさん、永四郎」
そう思うと素直に謝罪の言葉が零れた。少し驚いた顔をした木手を真摯に見つめる。
「やーぬ言う通りやっし。永四郎はいつもわったーに本気だったさぁ。ふらーだったのはわんぬほうやし」
平古場達に、そしてテニスに誰よりも本気で向き合っていた。本気だからこそ、手など抜かない。そのほうが中途半端に同情されるより余程マシだと思った。
「理解して頂けたようでなによりです。……君も、ここに残りたいのでしょう」
「ああ。当然やっし」
きっとどこか甘えがあった。木手の言う通り、今のままではきっと、このサバイバルに生き残ることはできない。もっと強くなることも、もっともっとテニスをすることも出来ない。
そして、何よりも平古場が求める木手に追いつき追越すと言うことさえ叶わなくなる。
ゆっくりと息を吸い込むと、今度は酸素が肺まで満たされた。混乱していた頭がすっきりした気がする。冷静になった頭で、もう一度木手の言葉を確認する。そうすれば、素直な気持ちが一つの答えを導きだした。
木手を信じている。
そう、素直に思えた。何故なら、共に過ごした時間がそれを証明しているからだ。だから、これは道を違えたわけではない。お互いが、お互いの足で立つために、隣に並び立つために必要なことなのだ。
そこへ平古場を呼ぶ声が聞こえた。どうやら平古場の試合が始まるようだった。木手に促されて、もう一度笑顔で詫びを入れて、試合が始まるコートへと走った。
綺麗に整備されたコートで対戦する相手に向き合う。
晴れ渡る秋の高い空と、穏やかな風を感じて自然と綻ぶ口元。試合をするには最高の気候だと思っている所へ、試合開始の合図がコート上に響く。平古場は、手に持つボールを強く握りこんだ。
視界の端に、木手が映りこむ。どうやら、隣のコートで始まった田仁志達の試合を見ているようだった。それを確認した平古場は試合に集中するために、視界からも意識からも木手を追い出しボールへと意識を向ける。
平古場の一歩も二歩も先を歩く木手に、必ず追いついて追越して見せる。
その誓いを胸に、渾身の力を篭めて相手コートへとボールを叩き込んだ。
木手は、平古場の試合が始まったことを確認して、田仁志と知念の試合へと視線を戻した。そして、そっと周りに聞こえないような小さな声で呟いた。
「ちばりよ。平古場クン」
きっともう、今の平古場には木手の声は聞こえない。
仲間から敵へ、それでも変わることなく好きな人。