未来への報償⑤
call me call you
声が、聞こえた。
冷たい風が吹く、このコートの上で。
痛みで朦朧とする意識の中で。
君の声が、聞こえた。
***
広いテニスコートに四人の男が立っている。
それが勝利の為ならば、他人を裏切ることに罪悪感など感じない。外野がいかに騒ごうが、唇に嘲笑の笑みを浮かべて受け流す。どれだけ批判の声で溢れようと、自分自身の決めた信念を貫き通す。それが木手永四郎という男のスタイルだ。
丸井ブン太とのダブルスを裏切ったことも、君島育斗との交渉を決裂させたことも、全ては目的を達成するためだった。高校生たちを蹴落として、一軍上位になれるチャンスはこの先きっとそう多くは無い。ならば、このチャンスを逃すことなく、確実に手に入れる為にはどんな事だってする。そう始めから決めていた。
強い方につく。それが、木手のモットーだと言った言葉に嘘偽りはない。
足を引っ張るだけの関係に、どんな価値を見出せるというのだろうか。
勝てる可能性を常に考えて行動することは、木手にとってみれば何の矛盾もない行動だ。綺麗ごとだけ並べて、助け合って仲良くテニスをするだけで、日本代表のバッチを貰えるならそうしただろう。けれど、一筋縄ではいかない強さと頭脳を兼ね備えた敵に、綺麗なだけのテニスは通用するはずがない。
目の前にある一軍へ昇格する機会を、どうあっても手に入れたかった。
もともと、君島のことも信用していた訳ではなかったから、丸井のワンダーキャッスルが完成したのならば、こちらのダブルスにも勝機は十分あると思った。
君島から教えられていた遠野篤京の弱点も、こうなればこちらを優位にさせる切り札に変わる。
「……信じて、……いいのか?」
そう聞いてきた丸井に、木手は冷たい笑みを浮かべただけだった。
「交渉決裂と捉えていいんだね?」
瞼から血を流しながら睨みつけてくる君島へは、嘲笑を含んだ視線を向ける。そして二人へ背を向けて自分のポジションへと戻っていった。
「いい加減、あの下衆な喚き声も、スカした顔を見るのも飽きました。早く試合を終わらせましょう」
嘲笑を含んだ笑みを浮かべる木手に、丸井と君島はそれぞれの表情で、木手から答えを受け取ったようだった。
交渉人と呼ばれる君島は、木手自身と似通っている部分があると思っていた。だから、交渉という手段で人を惑わせ、君島の思い通りに誘導するという手法を否定するつもりはなかった。だからといって、賛成する気もさらさらなかったが。自分自身に合うスタイルというものは、人それぞれだ。木手があれを真似た所で、ここまで上手く立ち回ることはできないだろう。
けれど、一つだけ気に食わないことがあった。
それは、木手達が負けることを前提に交渉をしてきたことだ。これから試合で戦う相手に、お前達は負けると言われれば、誰だって嫌な気分になるだろう。その言葉は、プライドの高い木手にとって尚更許せなかった。
「それに……」と木手は酷薄な笑みを浮かべる。自身のパートナーすらコントロール出来ないような男など、二人もろとも二軍落ちすればいい。それが似合いの末路だと、木手は底知れぬ冷たい笑みを浮かべて、対面する敵の二人を睥睨した。
「さぁ、息の根を止めてあげましょう。殺し屋の、この私がね」
そこからは、丸井と木手のダブルスが優勢だった。着実に得点を重ね、とうとう高校生チームに追いついた。
「ガムいる?」
丸井にもいつもの調子が戻って来たようで、噛んでいたガムを膨らませながら木手へ新しいガムを差しだす。けれど、試合中にガムなど噛まない木手はあっさりと断った。いつもと違うことをすることによって、集中の妨げになるのがいやだったからだ。そんな木手の思いなど知る由もなく、丸井は食べるように何度も勧めてくる。
執拗な押し売りに辟易している所へ、遠野の叫びが聞こえてきた。
思い通りにならない試合運びに、痺れを切らしたのだろう。ジワジワといたぶるのは止めるという宣言に、丸井と木手は相手コートに立つ二人を強く睨みつけた。
「さて、今度はどちらを御指名でしょうか?」
「そんなの、木手に決まってるだろい」
「散々狙われていたように見えましたが……?」
「お前がそれを言うかぁ?」
「まぁ、それもそうですね」
「相手に飲まれんなよ、キテレツ!」
「……はぁ」
わざとらしい溜め息を零してから、木手はラケットを構え直す。
先刻の宣言通り、相手の攻撃が苛烈を極めるのは目に見えている。それも、反則ギリギリのラインを狙う、卑劣で執拗なまでの攻撃。
遠野の怒り狂った叫び声に、丸井が萎縮していないだろうかと思い声をかけたが、そんな心配は無用だったようだ。これならば問題なく試合を運ぶことが出来るだろうと判断した木手は、すぐに試合へと意識を集中させる。
内心で期待した通り、丸井のワンダーキャッスルは、試合開始そうそうから始まった遠野の処刑をうけ続けても崩れることはなかった。
けれど、遠野がまた新しい処刑法を繰り出そうとした時、故意か偶然か、遠野のラケットが丸井へと目掛けて飛んで来た。
ボールへと集中していた所為で、とっさに避けきれなかった丸井は、右目を負傷してしまった。幸いにも傷は浅かったが出血量が多く、包帯で右目を覆うことになり完全に視界は奪われてしまった。
傷を負ったショックと、試合が中断し集中力が切れてしまったこの状態で、どれだ戦うことが出来るのかと、ざわりと胸を不安が過ぎる。
審判の試合再開の声を合図に、木手はラケットを強く握り直す。コートへと、ゆっくりとした歩調ではいって行く丸井の背中に視線を送れば、まるで木手の心情を慮ったかのような言葉を投げてきた。
「行くぞ、木手」
その言葉から伝わる丸井の試合に対する熱量が、怪我をする前と変わらず、いやそれ以上あることを知って、口の端が微かにあがる。
不屈の精神を美徳とする木手にとって、丸井の決して最後まで勝利を諦めない態度は好ましく映った。いつだって、最後の最後まで戦うかどうかを決めるのは自分自身だ。
丸井をダブルスのパートナーに選んだことは正解だったと、内心でほくそ笑みながら、配置につきラケットを構え直す。
今はただ試合に集中しようと、深呼吸をひとつして、胸に淀む感情をゆっくりと吐きだした。
相手の隙を見逃さず、弱い部分を徹底的に叩くことも戦術の一つであると木手は考えている。そして、だからこそ分かるのだ。なりふり構わなくなった相手が、どれほどやっかいな敵になるのかを。ただでさえ、陰湿で執念深い憎悪を腹の奥底で煮えたぎらせていた相手である。それが煮詰まったとなれば、どれほどの怨念じみたものであるか想像に余りある。
そして、小動物をいたぶるように、丸井への容赦のない攻撃は苛烈を極めるかに思えた。
遮られた右側の視界を、試すようにテニスボールが掠めて飛ぶ。当然のごとく、反応できずにボールはそのままコート端、ギリギリのラインに落ちる。
予想通りの結果に満足したような表情で、ニヤつく遠野の顔が視界にはいる。舌打ちをしたい衝動をこらえて、まったく動くことが出来なかった丸井の背中を見つめた。