Rain stops
Rain stops
「アーチャー、桜だね」
橋の上から見える川の土手に咲き乱れる桜を見て、陸は何も考えずに呟いた。
「ああ」
返された応答は少し掠れていた。
見上げる横顔は、なんの表情も浮かべていない。
だが、白銀の髪の隙間から、ときおり気まぐれのように覗く鈍色の瞳は、目の前の景色ではなく、ずっと遠くを見ていると、十に満たない陸にもわかった。
「アーチャー、しろーとお花見したね」
少しだけでもこちらを見て微笑んではくれないか、と、陸は白銀の髪を風にされるがままの、背の高い同居人を必死に見上げる。
「ああ、ほとんど咲いていなかったな」
「こんなだったらよかったね」
「……ああ、そうだな」
陸の願いは叶うことはなかった。
うららかな春の美しい景色から、顔を背けるように俯いてしまった同居人・アーチャーの声に、ひどく胸が痛んだことを陸は覚えている。
あれは、二人にとって最も大切な存在が消えて、一年が経ったころだった。
胸苦しい桜の日の夢は、いつもこの時期になると見る。変わらない空虚さで、春という陽気な季節を迎えている。
「士郎……」
あの日から六年。
また桜が咲き始めた。
窓の外はまだ薄暗い。衛宮邸の朝は静寂に包まれている。ただ一部を除いては……。
その一部――台所では物音がしている。
時計に目を向けると、午前五時前。明るくなりつつあるとはいえ、少しばかり世間よりは早い時間帯だなと陸は思う。
そんな時間にアーチャーは動き出している。
「眠ってないからな……」
呟いて、布団から身を起こす。
アーチャーは眠らない。人ではないからだ。
彼は衛宮士郎の使い魔だった。見習い陰陽師である陸が操る式神と大差ない存在だ。
“だった”という過去形であるのは、今、その主・衛宮士郎が存在しないからだ。
存在しないというのは“死んだ”ということではなく、“消えてしまった”ということだ。身にとり憑かせた荒神とともに士郎は消えた。陸も見ていた、士郎が消えるさまを。
それでも幼い時はうまく納得ができず、陸はアーチャーになぜだと訊いたことがある。
今思えば、酷なことを言わせたと反省する陸だが、アーチャーは眉一つ動かさず、そういう運命だったのだと、いきさつを淡々と説明してくれた。
ふ、と息を吐き、目を擦る。
「士郎がいたときは、眠ってたのに……」
愚痴っぽく呟いてしまう。
アーチャーは確かに眠っていた、士郎の傍らで。それを陸も知っている。
だが、今は布団に入ることもない。
それに、食事も摂っていない。陸の食事を作るだけで、アーチャーは魔力だけで補えるからと言って、まったく摂らないのだ。
「士郎がいたときは、一緒に食べてたのに……」
陸の口からまた、不貞腐れたような声が漏れる。
使い魔はそういうものだと、士郎といた時が特殊だったのだ、と、アーチャーは言う。その士郎がいなくなったのだから仕方がないと陸も理解している。
そういう決まり事を逸脱していた士郎の主としての在りようだけではなく、アーチャーにとって士郎の存在がどれほど大きなものだったかを陸は知っている。
それは陸にとっても同じ。
士郎は、陸とアーチャーにとって、とてつもなく大きな存在だった。
それでも陸は成長とともに、時間とともに、少しずつ過去のことだと整理をしはじめている。忘れるわけではないし、ないがしろにするわけでもない。
だが、生きていくためには、区切りをつけるべきことがある、と思うようになっていた。
「でも、アーチャーは、ダメなんだよな……」
士郎とアーチャーのよき理解者・遠坂凛からは、アーチャーが衛宮士郎と元を同じにする者だと聞いた。そして、士郎が必死になってアーチャーを探していた、ということも。
そんな二人の内面の話を何がどうと聞いたことはないが、凛はわかる気がするのだと言っていた。
――歪んでいるのよ、あいつらは。私では修正できなかったわ……。
凛はそう言って、少し怒りながら、少し悲しそうに笑っていた。
布団の上で陸は項垂れる。
「おれには何もできないのかな? 士郎、アーチャーを救うには、どうすればいい?」
何もできない。できないどころか、何も思いつかない。
士郎がいたときのように、アーチャーは笑わない。いつも遠くを見ている。時々空を見ている。
士郎のいたこの家のどこにもアーチャーの居場所がないようで、ときおり庭に立ち尽くしている。
「きっと、思い出すんだ、この家のどこもかしこも、士郎の思い出でいっぱいだから……」
不甲斐なさに涙が滲んだ。
「ねえ、おれに、教えてよ……、士郎……」
布団を握りしめて、陸は憤ることしかできない。自分はまだあの頃と変わらない子供だ、と、悔しくて仕方がない。
「泣きたいのに、泣けないのは、アーチャーなんだ!」
歯を喰いしばり、呼吸を繰り返す。
布団を握った拳を少しずつ開く。もう子供の手ではなくなってきた自分の掌を見つめる。
アーチャーが時々、自分の掌を見つめているのを思い出した。そのまま顔を覆って泣き出すのではないかと陸はいつも気が気ではなくなってしてしまう。
だが、アーチャーは泣いたりしない。見つめた掌を握りしめ、歯を喰いしばって、空を振り仰いで、一心に見つめている。青く澄んだ空を、辛そうに、どこか愛おしそうに。
「…………探してみよう。何か、必ずあるはずだ」
士郎は消えてしまったが、陸は死んだとは思っていない。士郎はまだ、どこかで存在している気がするのだ。
部屋の隅に積み重ねられたまま置いてある、士郎の残した文献や書物に目を向ける。側に這っていき、じっと書物を見下ろす。
「何か、残してないかな……」
士郎の使っていた陰陽術の書物にはすでに目を通している。したがって、他の物――神社関連の発行物や記紀(古事記・日本書紀)、それに神社の謂れなどを記した文献だ。
「古文書は読んだことないから……」
数冊を手に取って、ぱら、と中を覗き、陸はそのミミズのような文字に尻込みしそうになる。
「いや、がんばらないと。待っててよ、アーチャー。絶対、何か探し出すから」
陸は意気込んだものの、とりあえずは、書物の分類からはじめることにした。
「んー、荒神って言ってたよなー」
士郎が消える前に見えた漆黒を纏った神。
神々しいのに周りの空気感が黒かった。
容姿で追っていけるような特徴のある姿ではなかったので、そこからは何もわからない。ただ、着ていた服が、白い古代の衣服のようだった。
「なんだっけ、あの服?」
歴史だか古典だかの教科書に載っていた絵を思い出す。神話に出てくる神や、古代の天皇のイラストは、だいたいあのような服装で描かれていた。
「あらがみ……、こうじん、とも呼べるよな。でもこうじんだと、台所の神様だったよな……? アーチャーと因縁深そう……」
台所に立つアーチャーを思い出し、少し笑いがこみ上げた。
「荒ぶる神……、荒ぶる……」
考えながら書物を漁る。所々に付箋が付いていた。士郎が何かを調べた痕跡がある。
「士郎も何か調べてたんだ。でも、何を?」
「アーチャー、桜だね」
橋の上から見える川の土手に咲き乱れる桜を見て、陸は何も考えずに呟いた。
「ああ」
返された応答は少し掠れていた。
見上げる横顔は、なんの表情も浮かべていない。
だが、白銀の髪の隙間から、ときおり気まぐれのように覗く鈍色の瞳は、目の前の景色ではなく、ずっと遠くを見ていると、十に満たない陸にもわかった。
「アーチャー、しろーとお花見したね」
少しだけでもこちらを見て微笑んではくれないか、と、陸は白銀の髪を風にされるがままの、背の高い同居人を必死に見上げる。
「ああ、ほとんど咲いていなかったな」
「こんなだったらよかったね」
「……ああ、そうだな」
陸の願いは叶うことはなかった。
うららかな春の美しい景色から、顔を背けるように俯いてしまった同居人・アーチャーの声に、ひどく胸が痛んだことを陸は覚えている。
あれは、二人にとって最も大切な存在が消えて、一年が経ったころだった。
胸苦しい桜の日の夢は、いつもこの時期になると見る。変わらない空虚さで、春という陽気な季節を迎えている。
「士郎……」
あの日から六年。
また桜が咲き始めた。
窓の外はまだ薄暗い。衛宮邸の朝は静寂に包まれている。ただ一部を除いては……。
その一部――台所では物音がしている。
時計に目を向けると、午前五時前。明るくなりつつあるとはいえ、少しばかり世間よりは早い時間帯だなと陸は思う。
そんな時間にアーチャーは動き出している。
「眠ってないからな……」
呟いて、布団から身を起こす。
アーチャーは眠らない。人ではないからだ。
彼は衛宮士郎の使い魔だった。見習い陰陽師である陸が操る式神と大差ない存在だ。
“だった”という過去形であるのは、今、その主・衛宮士郎が存在しないからだ。
存在しないというのは“死んだ”ということではなく、“消えてしまった”ということだ。身にとり憑かせた荒神とともに士郎は消えた。陸も見ていた、士郎が消えるさまを。
それでも幼い時はうまく納得ができず、陸はアーチャーになぜだと訊いたことがある。
今思えば、酷なことを言わせたと反省する陸だが、アーチャーは眉一つ動かさず、そういう運命だったのだと、いきさつを淡々と説明してくれた。
ふ、と息を吐き、目を擦る。
「士郎がいたときは、眠ってたのに……」
愚痴っぽく呟いてしまう。
アーチャーは確かに眠っていた、士郎の傍らで。それを陸も知っている。
だが、今は布団に入ることもない。
それに、食事も摂っていない。陸の食事を作るだけで、アーチャーは魔力だけで補えるからと言って、まったく摂らないのだ。
「士郎がいたときは、一緒に食べてたのに……」
陸の口からまた、不貞腐れたような声が漏れる。
使い魔はそういうものだと、士郎といた時が特殊だったのだ、と、アーチャーは言う。その士郎がいなくなったのだから仕方がないと陸も理解している。
そういう決まり事を逸脱していた士郎の主としての在りようだけではなく、アーチャーにとって士郎の存在がどれほど大きなものだったかを陸は知っている。
それは陸にとっても同じ。
士郎は、陸とアーチャーにとって、とてつもなく大きな存在だった。
それでも陸は成長とともに、時間とともに、少しずつ過去のことだと整理をしはじめている。忘れるわけではないし、ないがしろにするわけでもない。
だが、生きていくためには、区切りをつけるべきことがある、と思うようになっていた。
「でも、アーチャーは、ダメなんだよな……」
士郎とアーチャーのよき理解者・遠坂凛からは、アーチャーが衛宮士郎と元を同じにする者だと聞いた。そして、士郎が必死になってアーチャーを探していた、ということも。
そんな二人の内面の話を何がどうと聞いたことはないが、凛はわかる気がするのだと言っていた。
――歪んでいるのよ、あいつらは。私では修正できなかったわ……。
凛はそう言って、少し怒りながら、少し悲しそうに笑っていた。
布団の上で陸は項垂れる。
「おれには何もできないのかな? 士郎、アーチャーを救うには、どうすればいい?」
何もできない。できないどころか、何も思いつかない。
士郎がいたときのように、アーチャーは笑わない。いつも遠くを見ている。時々空を見ている。
士郎のいたこの家のどこにもアーチャーの居場所がないようで、ときおり庭に立ち尽くしている。
「きっと、思い出すんだ、この家のどこもかしこも、士郎の思い出でいっぱいだから……」
不甲斐なさに涙が滲んだ。
「ねえ、おれに、教えてよ……、士郎……」
布団を握りしめて、陸は憤ることしかできない。自分はまだあの頃と変わらない子供だ、と、悔しくて仕方がない。
「泣きたいのに、泣けないのは、アーチャーなんだ!」
歯を喰いしばり、呼吸を繰り返す。
布団を握った拳を少しずつ開く。もう子供の手ではなくなってきた自分の掌を見つめる。
アーチャーが時々、自分の掌を見つめているのを思い出した。そのまま顔を覆って泣き出すのではないかと陸はいつも気が気ではなくなってしてしまう。
だが、アーチャーは泣いたりしない。見つめた掌を握りしめ、歯を喰いしばって、空を振り仰いで、一心に見つめている。青く澄んだ空を、辛そうに、どこか愛おしそうに。
「…………探してみよう。何か、必ずあるはずだ」
士郎は消えてしまったが、陸は死んだとは思っていない。士郎はまだ、どこかで存在している気がするのだ。
部屋の隅に積み重ねられたまま置いてある、士郎の残した文献や書物に目を向ける。側に這っていき、じっと書物を見下ろす。
「何か、残してないかな……」
士郎の使っていた陰陽術の書物にはすでに目を通している。したがって、他の物――神社関連の発行物や記紀(古事記・日本書紀)、それに神社の謂れなどを記した文献だ。
「古文書は読んだことないから……」
数冊を手に取って、ぱら、と中を覗き、陸はそのミミズのような文字に尻込みしそうになる。
「いや、がんばらないと。待っててよ、アーチャー。絶対、何か探し出すから」
陸は意気込んだものの、とりあえずは、書物の分類からはじめることにした。
「んー、荒神って言ってたよなー」
士郎が消える前に見えた漆黒を纏った神。
神々しいのに周りの空気感が黒かった。
容姿で追っていけるような特徴のある姿ではなかったので、そこからは何もわからない。ただ、着ていた服が、白い古代の衣服のようだった。
「なんだっけ、あの服?」
歴史だか古典だかの教科書に載っていた絵を思い出す。神話に出てくる神や、古代の天皇のイラストは、だいたいあのような服装で描かれていた。
「あらがみ……、こうじん、とも呼べるよな。でもこうじんだと、台所の神様だったよな……? アーチャーと因縁深そう……」
台所に立つアーチャーを思い出し、少し笑いがこみ上げた。
「荒ぶる神……、荒ぶる……」
考えながら書物を漁る。所々に付箋が付いていた。士郎が何かを調べた痕跡がある。
「士郎も何か調べてたんだ。でも、何を?」
作品名:Rain stops 作家名:さやけ