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No.017
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novelistID. 5253
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六尾稲荷

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――ピチャン。
 草の葉の雫が水中へと落ちた。水面に波紋が広がり、そこに映っている景色を波打たせる。ため池には幾重にも連なる青い青い山が波打っていた。波紋は広がるにつれ、だんだんとその勢いを失い、池の前でうずくまる少女を映しているあたりで消えてしまった。
 帰りたい……こんなところは嫌い。元いた街に帰りたい。
 少女はこの場所に越してきてからというものいつもそんなことばかり考えていた。





●六尾稲荷●




「ノゾミ、来週パパの実家に引っ越すことになったから準備をしておきなさい」

 ノゾミが父親からそんなことを言われたのは二、三週間くらい前のことだ。学校から家に帰ってきたら、この時間にはいないはずの父、そして母がキッチンのテーブルに座って対峙し、ものすごく深刻そうな顔をしていた。何があったのかと問うと、父親は一言、「実家へ帰って家業を継ぐことにした」と、言ったのだった。
 かくしてノゾミ一家は越してきた。父の実家は何もないところだ。東西南北どこを見ても広がるのは青い山ばかり。その山に囲まれたその中にこれから彼女らが暮らす山里があり、その中は田畑ばかりだった。そして、住まう場所は木造の古い家で玄関は土間だった。かろうじて電話とテレビはあるものの、テレビのチャンネルは三つしかつかない。周りにあるものといえば、農作物の直売所がいくつかと駄菓子屋が一軒だけ。おまけに学校も遠かった。通学に一時間以上かかるなんて、ありえないとノゾミは思う。
 さらに悪いことになかなか友達ができなかった。三軒先にタイキという親戚の男の子が住んでいて、引っ越してきた時に紹介されたのだが、これがとんでもないわんぱく坊主で、ノゾミとはそもそもソリが合わなかった。いや、他の子どもたちに関してだってそうだ。もともと運動が得意でない都会っ子のノゾミは田舎の子どもたちのパワーについていけなかったのだ。

 季節は初夏、セミの啼く声が山里全体に響いている。ノゾミはぼんやりと池を眺めていた。浅い部分に字が下手な人が書いたような音符の形をしたオタマジャクシが群れて、水面の底にある何かをつついている。

 ノゾミにとっての悩みの種はそれだけではなかった。祖母のカナエのことである。カナエときたらいつもやたらとうれしそうな顔をして怖い話をノゾミに聞かせてくるのだった。

「夜は早く寝なければいげないよ。そうしないと夜廻るが来るよ。夜廻るは黒い衣を着て、髑髏の面をづげでてな、夜寝ない悪い子はあの世へさらって行っでしまうんじゃ。気を付げなくてはいげないよ」

 祖母は、そんな具合にノゾミに怪談話を聞かせて、「ひっひっひっひ」と笑うのである。
 ノゾミはもちろん幽霊なんて信じていない。けれども、寝る前に夜廻るの話を思い出すと怖くて怖くてたまらなくなるのである。それだけではない。猛スピードで一本道を追いかけてくるという貉の話、夕暮れ時の学校に現れて子どもをさらっていくというという振り子を持った妖怪の話、夜中に泣き叫ぶような声が聞こえるという話……祖母の怪談話は、無駄にバリエーションに富んでいた。
 祖母カナエの怪談好きは近所でも有名で、新参者のノゾミが近所で名前を聞かれ答えると、いつも祖母の話になる。そして、近所の人はいつもこう言って失笑するのである。

「ああ、この前引っ越してきたカナエさんのお孫さんってあなただったの」

 それを聞くたびにノゾミは、なんだかとても情けない気持ちになるのだった。祖母のせいで自分までそう見られると思うと嫌で嫌で仕方なかった。祖母がそんな話ばかりしているから、三軒先に住んでいるタイキだって会うたびに祖母を槍玉に挙げて自分をばかにするのだ。

 水面に映る風景が少しばかり赤みがかってきた。もう家に帰らなくてはとノゾミは立ち上がる。すると視界が広くなり、ため池全体が見渡せた。
 その時、ノゾミはため池の中心に妙なものが浮かんでいるのに気が付いた。それはサッカーボール大の丸い生き物だった。ぱっちりと開いた丸い眼がこちらをじっと見つめている。
 ――とんでもなく大きなオタマジャクシ、ノゾミにはそんな風に見えた。
 大きなオタマは、しばしノゾミの様子を伺うと、身体を翻し、葉っぱの形のような尾ヒレを見せてボチャンと水の中へと消えて行った。
 ノゾミは波紋の残るため池をしばし呆然と見つめていたが、にわかに背中がぞくっとするのを感じた。それに気が付いたときノゾミはもう一目散に走りはじめていた。
 何? なに? なんのなのあれは……! ノゾミは思い出しちゃいけないと思いながらも祖母の怪談話を反芻していた。ああ、なんてタイミングが悪いんだろう。ノゾミが走っていたのはまっすぐに伸びる一本道。祖母いわく、貉が通る道。そこはそいつの縄張りで、そいつは一直線の道をどこまでも追いかけてくるという……。もう、いやだ。こんなところ。おばあちゃんのばかぁ! ノゾミは涙ぐみながら一本道を走りとおした。
 一本道が終わり、ノゾミは足を止めた。貉は曲がるのが嫌いだから、一本道を過ぎれば大丈夫と聞いていたからだ。ぜえぜえと肩で息をし、呼吸を整えて歩き出す。そして、そろそろ家かという頃、ノゾミの視界に鳥居が入ってきた。稲荷神社である。稲荷神社と言っても都会のすみっこにある小さなものではなくて、かなりの大きさがあると聞いている。現に鳥居は大人数人分の高さがあり、その後ろには石段が続いていた。石段は山のずうっと上に向かって伸びており、その先にあるであろう神社はまったく見えない。そこの神様に元いた街に帰れるようお願いしたいところだったが、神社は遥か山の中だ。とても怖くて行けるわけがない。祖母の怪談話を聞いた後では尚更である。ノゾミは鳥居の前まで歩いてきた。すると、石段の二、三十段目あたりにちょこんと座る小さな獣が目に入った。
 それは、赤茶色の子犬のような獣だった。その姿はとてもかわいらしく、緑色の瞳をしていて、頭にカールしたふさふさの毛が生え、尾の先も同じようにカールしている。それが六又に分けられていて、その様子は学校の音楽室に貼られている音楽家の髪型みたいだった。獣は一心に神社のある方向を見つめている。

「あなた、どこのワンちゃん?」

 ノゾミは声をかけてみたが、獣は彼女を一瞥しただけで、すぐに視線を戻してしまった。

「もうすぐ暗くなるよ。どこの子か知らないけど早く帰るんだよ」

 ノゾミはそう言って鳥居から離れていった。
 獣はまだ神社の方向を見つめていた。



「仕事の具合はどんだ」

 カナエが夕食の漬物をつまみながら訊ねる。

「まだまだだよ……機械の操縦はむずかしいし、昔は親父に手伝わされたもんだけど、ここを出てずいぶん立つからね、もうくたくただよ」

 地酒の入ったグラスを片手に、ノゾミの父は疲れた声で言った。そして、一升瓶からグラスに酒をどっと注ぎ、ぐいっと飲み干す。顔はすでに真っ赤だった。あまり強くはないらしい。

「……くそ、部長め、俺をあっさりと捨てやがって! いままで会社のために尽くしてきた俺をなんだと思ってやがる……」
作品名:六尾稲荷 作家名:No.017