をさなごころ
初めてギンコを見たときの驚きを、化野は今でも覚えている。
白髪に、脱色したような白い肌。樹々のみどりを映し取ったような瞳。
「――誰だ」
庭先に佇む姿にかけた誰何の声は掠れていたと思う。人ではない、と思った。
「おお、帰ったか。こちらへ来なさい」
表座敷の障子が開いて、父が顔をだした。縁側には見慣れない木箱がひとつ。沓脱石の上に、旅ごしらえのはきものが一そろい。
化野は教科書の包みを抱えたまま縁に上がった。
「息子です」
父の向かいには、山伏のような風貌の男が座っていた。陽灼けしたいかつい顔が、人なつこい笑みになった。
「ギンコ、お前もおいで」
真白な少年は、楠の大木の葉群を見上げていた視線をこちらへ向けると、ほとんど足音をたてない歩き方で近づいてきた。縁には上がらず、沓脱石のそばに呆と突っ立っている。
すぐそばに来て、化野は少年が片目を盲いているらしいことに気づいた。
ざんばらの前髪に半ば隠れた左の目蓋は落ちくぼみ、薄い皮膚はしたたるような木の葉の蔭に染まったうすみどり。
「蟲師のマキナと申します。お父上にギンコの眼を診ていただきに来たのですよ」
(蟲師)
嫌悪に眉を顰めそうになるのを、化野はどうにかこらえた。
香具師のたぐいを、化野は好かない。いやしくも近代医学を学ぶ者として、あやしげなまじないを受け容れることはできない。
(父上はなぜこんな者を……)
小さな非難をこめて父を見つめたが、気づかぬ振りでかわされた。
「……おれ」
初めて白い少年が口をきいた。
「いいよ別に、このままで」
かばうように左目を押さえる。
山を越えて歩いてきたのだろうか。落ち葉混じりの黒土を噛んだ草鞋に、脚絆には草摺りの汚れがまだ鮮やかだ。
「そうもいくまい、まだこれから育つ体だ。一度調べておいて悪いことはない」
父が手を打つと、奥の襖の向こうにすぐ人の気配が来た。
「お泊りだ。食事と部屋の仕度を」
少年がびくりと身を竦めたのが化野にもわかった。
「ああ、いえ」
マキナが軽く制するように手を上げた。
「野宿には慣れております。部屋のお気遣いはどうぞ無用に」
「しかし、まだ小さい子供もいるのに……」
「お庭先をお貸しください。食事は有難く頂戴いたします」
父はまだ不承知らしい顔をしていたが、山伏のような男は人をそらさぬ微笑のまま、心を変えるつもりはなさそうだった。
湯屋の仕度が整いました、と襖の向こうに声がする。旅人をもてなすために、早めに風呂を立てたのだろう。
「さあ、どうぞこちらへ。ギンコ君も」
白い少年はそういう風に名を呼ばれることに慣れないのだろう、またびくりと大きく肩を揺らした。
(――獣みたいだ)
書生に連れられて庭から湯屋へ回ってゆく細い後姿を目の端にとらえながら、化野はそう思った。
化野家には女手が少ない。母は化野が物心つくかつかないかのころに他界したので、化野は賄いの老女と書生たちに育てられたようなものだ。
父から学ぶ代わりに、近くの町の医学校へ通うこと、小さな個室を与えられていることのほかは、跡取り息子といえど書生とほとんど扱いに差はない。同じように家事を分担し、同じ菜を同じ部屋で食う。
夕餉の支度が整うまでに、今日の割り当ての薪を割ってしまおうと裏庭に出たら、ギンコと出くわした。
井戸の傍にしゃがんで、洗濯をしているのだった。向こうも化野の気配に気づいて振り向いたものの、会釈ひとつするでもなく盥に視線を戻した。
風呂からあがったばかりなのか、頬がほんのり赤みを含んで、先刻よりは子供らしい様子に見えた。汚れた旅装を着替えていたが、藍の色の褪せたきものは随分くたびれて見えた。
かん、と薪を割る。ちゃぷちゃぷと小さな水音が続く。互いに口はきかない。
そうするうちに化野は、明日の分まで足りるほど薪を割ってしまう。ギンコはようやく洗い終えたものを抱えて、干し場を探すように目を泳がせる。
「来い。こっちだ」
化野が声をかけると、ギンコはやはりびくりと身を竦めた。それでも意図は伝わったか、盥を抱えてまたあの足音を立てない歩き方でついて来る。
綱を張りまわした干し場には、たくさんの洗濯物がひらひらと泳いでいた。人が多いから洗い物も多い。家業柄敷布や晒し木綿、包帯も混じる。乾いているものを取り込んで場所を作ってやると、ギンコははにかんだような会釈を返した。
「……おまえも、蟲師になるのか」
「……わからない。でも、……たぶん」
「蟲師ってのがどういう仕事かよくわからんが……おもしろいものか?」
「……べつに」
「蟲師になりたくてなるわけじゃないのか」
その問いには、ギンコは答えなかった。空になった盥を返して水を切り、どこへ片付ければいいのかと目顔で化野に尋ねるので、寄越せと手を出した。
悪戯心がひょいと頭をもたげた。化野はギンコの白い手首を掴み寄せ、左目を隠す前髪を払った。
「この目、どうした」
ギンコは咄嗟に手のひらでくぼんだ目蓋を覆い隠すと、化野の向こう脛を蹴りつけた。痛みに思わずひるんだ化野に盥を投げつけ、手が離れるとたちまち身を翻して駆け去った。
「……やっぱり獣だ」
蹴られた裾を払い、泥のついた盥を拾いながら、化野は笑い出していた。
今日は客があるから、書生たちとは別の座敷に膳が運ばれた。浜の誰かが届けてくれたのだろう、活きのいい魚が膳を華やがせていた。
夕餉の席にはギンコもいたが、頑なに化野とは視線を合わせようとしなかった。無作法をまだ怒っているのだろう。
「珍しいものは何もありませんが」
父はマキナと杯を交わしている。化野は黙って箸を動かしながら、ちらちらとギンコを伺った。
大人たちは話に夢中で、ギンコの飯碗が空になっていることには気づかないらしい。ギンコも、無邪気に二膳目を言い出せるほどには幼くもないようだ。化野はかつかつと碗を空けてしまうと、自分で飯櫃の蓋を取ってよそった。
「ほら、お前も」
碗を寄越せとついでのように手を出すと、ギンコの白い頬は真赤になった。こみ上げる笑いを堪えて仏の飯のように盛ると、
「……お、多い」
赤い顔のまま小さな声で訴える。
「食えよこれくらい。……これでどうだ?」
半分ほどに盛りを減らすと、こくりと頷く。真白な髪がさらりと流れた。
父は何度も客間をすすめたが、蟲師は首を縦に振らなかった。
ギンコはどうか、と目をやると、夕餉の席のことを気にしているのか、俯いたまま大楠のもとに天幕を張ろうとしている。化野に表情を読まれまいとしているようだった。
「おれはいいよ。マキナは部屋で寝たら」
妙にきっぱりとした口調で言って、ギンコはさっさと天幕の中へ潜ってしまった。困ったように蓬髪を掻きながら、抑えた声で蟲師が説明したことには、
「あの子は蟲を寄せる質です。一晩やそこらで害をなすほどではないと言いきかせてはおるんですが、酷く気にしているようで……」
天幕の粗い布越しにほんのりと火が点るのがわかる。やがて、独特の香が庭先に漂いだした。
「蟲払いの香です。煩いでしょうが、どうかご勘弁を」
そう言い置いて、蟲師は自分の天幕を張りはじめた。