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をさなごころ

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 食いすぎた夕餉が腹につかえるようで、化野は夜中に起き出した。水でも飲もうと廊下に出たら、そこまでほんのりと香が漂ってきていた。
 闇に沈む庭に、ぼうっと白い姿がある。昼間と同じように大楠の葉群を見上げていた。
「ギンコ」
 声を抑えて呼ぶと、ぎくりと振り向いた。
「眠れないか。お前も食いすぎか?」
 おどけて問うと硬い雰囲気が和らいだ。化野は裸足で庭へ降りて、ギンコと肩を並べるように大楠を見上げた。
「昼間も見てたな。何かいるのか、物の怪でも」
「……蟲がいる」
 ほう、と目を凝らして伸び上がったが、化野には何も見えない。
「悪いものじゃないと、マキナは言ってた」
「古木だからな。何かいてもおかしくないとは思ってたが……そうか、蟲か」
「……気味悪くないか」
 意外そうな声に、化野は僅かに低い位置にある碧の眼を見返した。
「悪いものじゃないんだろう?」
 張り詰めた糸がふっと緩んだように、ギンコの肩が丸くなった。
「蚊や毛虫の類とは違うのか。除虫菊の匂いとは違うな」
 ふんふんと鼻を蠢かせていると、ギンコは天幕の中から燻る小皿を取りだして化野に見せた。不快な匂いではない。むしろ、胸がすうと透くような、薬草に似た香りがした。
「あまり吸わないほうがいい」
 化野に煙がかからないよう、皿を袂に包むようにしてギンコはまた葉群を見上げた。


 朝餉のあとに父がギンコの眼を診るという。化野は昨夜からどう理屈を捏ねて学校を休もうかと思案していたが、父のほうから登学しなくてよいと言われた。
「後学のために、お前も見ていなさい」
 そう言いながら、他の書生を診察室に寄せないのは、父には珍しい贔屓だった。
 つんと鼻をつく消毒薬の臭いに緊張した様子で、ギンコは細い膝を座布団の上に揃えていた。蟲師がその背後を守るように胡坐を組む。化野は半畳分ほどの遠慮を置いて父の傍に控える。
 目蓋を覆う白髪を額に掻きあげる。
「……目を開けて」
 思わず身を乗り出してしまいそうになるのを、化野は膝を掴んで堪えた。明るい診療室の中、青白い目蓋がゆっくりと開く――
 ギンコの眼窩は小さな洞穴のように暗かった。
「痛むかね?」
「……いいえ」
 目の縁を押さえるようにして、父がその洞穴を覗き込む。膝に揃えたギンコの拳に、僅かに力が篭るのがわかった。
「……ふむ」
 床屋で使うような前掛けでギンコの胸から膝までを覆うと、父は消毒済の器具を手に取る。茶色い薬液を浸した綿球が孔の中へ沈むとき、ギンコは少し肩を強張らせた。化野は自分の眼球の奥がぎりぎりと痛むような感覚にたまらず目を伏せた。
「痛むかね?」
「いいえ」
 同じ短いやり取りを繰り返しながらの診察は、そう長くかからずに終わった。
「……膿んではいないし、骨や脳神経にも影響はなさそうだ。綺麗に眼球だけ抜けている」
 どうしたらそんなことになるのか、化野には想像もつかなかったが、父は予め話を聞かされているのか、それ以上は言わなかった。
「しかし、まだ成長期でもあるし……このままでは、眼窩がつぶれて頭蓋が歪むかもしれない。頭痛が出ることはないかね?」
「……ときどき」
 ギンコは、もう目蓋を閉じていた。
「義眼を挿れればいいでしょう。腕のいい職人を知っているから、私に任せなさい」
 父が差し出す使用済の器具を、化野は慌てて金属皿に受けた。消毒薬に両手を浸し、診療具を片付けると、父はふわりと表情を柔らかくした。
「綺麗な碧だ。左右の色を揃えねばならんな……お前、画材を持ってきなさい」
 不意に声をかけられて、化野はうまく事態が飲み込めない。
「料紙と絵具と画筆を持っておいで。ギンコ君の肖像を描いてあげなさい」
「は、はい」
 息子は医術より画術に執心で、などと客に説明する父の声を背に聞きながら、化野は慌てて私室に戻った。
 画帳と絵具箱を抱えて戻ると、ギンコはもう庭に降りていた。
「寸法は後でもう一度正確に測ろう。お前は顔を描きなさい。瞳の色を合わせるための色図面だから、しっかり描くように」
「そんな……」
 化野は確かに画が好きだ。医学校に進むまでは、画塾に通って学んだこともある。しかし、それはあくまでも子供の手すさび程度のものだ。
「無理です。そんな大事な図なら、画師に……」
 しかし、ギンコは真直ぐに化野を見返して言った。
「いい。描いてくれ」


 だからといって、医学校を休んでよいというわけではない。放課になると化野は家へ飛んで帰り、画帳に向かった。
「お前は昼間なにしてる、ギンコ」
「……山歩き。浜に行くこともある」
 毎日向かい合ううちに、自然と互いに馴染んだ。ギンコの口数は相変わらず少ないが、感情の起伏が化野にもわかるようになった。
「……習うことは、たくさんあるから」
 化野に描かれながら、ギンコも帳面を開く。昼間のうちにマキナから学んだ蟲師の技を書き留めているのだろう。年齢の割にはなかなかの蹟だった。
「……お前も絵を描くのか」
 ふと覗き込んだ手元に、墨一色で図像が描かれているのに気付いて、化野は筆を止めた。
「見せてくれ」
「嫌だ」
「減るものじゃなし。何の絵だ、見せろ」
「……蟲だ」
 帳面を奪われまいと抗いながら、ギンコは気まずげにそう言った。
「このあたりで見るやつを、描きとめてるだけだ」
「へえ、それならなおさら見たい」
 見せろ見せないと大騒ぎになり、午後遅くの診療中の父にうるさいと二人まとめて一喝される始末。仕事の邪魔をした罰に、二人で風呂掃除と水汲みを命じられた。
 化野家には家族の入る風呂のほかに、患者用の薬湯を張る湯屋がある。薬草の茶色い染みは頑固にこびりつき、容易には落ちない。二人並んで束ねた藁で黙々と湯桶を擦りつつ、化野は小声でギンコに話しかける。
「蟲師というのは、もっと胡散臭いものだと思っていた」
 ギンコはちらりと視線を上げただけで、黙って桶磨きを続ける。
「狐憑きだ、蟲の仕業だと、人の不安につけこんで汚い商売をするやくざ者だと思っていた」
「……そういう蟲師もいる」
 自分たちは違う、と弁解しないところが化野には好ましく感じられる。
「お前のお師さんは違うな。博物学の知識に父が舌を巻いていた。西洋の学問と言葉は違うが、言ってることは同じだと」
 色の薄い唇がほんのりと笑みを浮かべた。
「……お師さんは、お前の父上か、縁者か」
 ギンコは黙ってかぶりを振る。
「なぜ蟲師の修行をしているか、訊いてもいいか」
 桶磨きの手は休めず、ギンコは訥々と語る。
「……子供の頃の記憶がないんだ」
 声を飲んだ化野とは視線を合わせようとしない。
「気がついたら山の中を独りで歩いていた。ギンコという名前のほかは、家族のことも、住んでいた場所のことも、思い出せない。今でも」
「……それで、お師さんと出会った?」
「最初は、里に住もうと思った。世話してくれようという人もいたけれど、おれは蟲を寄せるから」
 ひとつところには留まれなくて、流れ歩くうちに蟲師と出会ったのだという。
「自分の周りにいるものたちが何なのか知りたかったし、たぶん他にできる仕事もないだろうから、これはこれでいいと思う」
作品名:をさなごころ 作家名:みもり