をさなごころ
あれから何年が過ぎたか。
化野は医者になり、父の跡を継いだ。大勢いた書生たちも化野に前後して免状を得、それぞれの開業地へ散っていった。化野は「弟子まで養う甲斐性はない」と書生を置かないので、昔は常に人でざわついていた広い屋敷は静かなものだ。
特に夜は、気味が悪いほどの静寂が訪れる。遠くに潮鳴りが聞こえるはずなのに、ぴんと張ったように音がしなくなることがある。
そんな夜、化野は縁側で酒を飲む。升一杯の酒を大楠の根元に捧げ、独りでちびちびと酒を啜る。朝には升は乾いている。化野の目には見えないが、大楠には今でもやはり何かがいるのだと思っている。
はじめはマキナに連れられて来ていたギンコは、数年後には独り立ちしていた。いつ何処でどういう経緯で手に入れたのか、この辺りでは珍しい洋装に白髪碧眼の異相だが、幼い頃を知る村人は抵抗なく受け容れる。
マキナはマキナで、ギンコとは別に父を訪ねて来ていたが、父の隠居に歩を合わせるように訪問が途絶えた。
化野は時おり予備の義眼を取り出し、自分の眼にあててみる。大楠を見上げる。湯屋や縁の下の暗がりを覗く。もちろん、それで何かが見えるわけではないが。
(どこの空の下を歩いているだろう)
義眼のかたわれを持つ幼友達を思いつつ、遠い山向こうの空を見やる。
「よう」
昔馴染みの蟲師は、いつも唐突に庭先に現れる。
「おう。まだ来る季節じゃないだろう。何かあったか」
重そうな木箱を縁先に下ろし、ギンコはさらりと前髪を上げた。左の目蓋が落ちくぼんでいた。
「義眼をどうした。怪我でもしたか」
「いやいや、そうじゃない。ちょっと仕事でな」
化野が蟲の話を聞きたがっているのを知っていて、すぐには話さない。化野が焦れてせがむのを楽しんでいるのだ。
「まあいいから、診察しよう。前に作ってからもう何年だ? 新しい眼を注文したほうがいいな」
「頼みますよ、先生」
おどけて軽口をきく。硬く身を強張らせた獣のような子供が、飄々と風に流れる風情の男になった。そうなるまでにどんなことがあったのか、詳しくは化野は知らない。
器具を揃えて縁先に戻ってくると、ギンコは咥え煙草で大楠の梢を見上げていた。
「……いるか」
「ああ、いる。相変わらずだ」
古木とそこに棲む蟲を労わるようにそっぽを向いて煙を吐くと、化野の診察を待つように空洞の目を開く。
「いつもの通りに予備を作って、預かっておいてくれ」
「わかってるよ。義眼ができるまでは滞在できるんだろうな?」
眼球のあるほうの目が細まった。
「世話になります」
「浜にも知らせをやらなけりゃな。魚のいいのがあればいいが。酒は今度お前が来たら飲もうと思ってたやつがあるし……」
「そりゃありがたい」
「だから、目玉の経緯をちゃんと聞かせろよ」
「わかってる。土産は話だけじゃない、先生好みの珍品も仕入れて来たぞ」
「なに。早く見せろ」
「診察が終わったらな」
む、と眉を寄せた化野に、ギンコは小さく肩を揺らした。
「相変わらずだな、お前も」
「……まあな」
目が合うとどちらからともなく笑いがこぼれた。