やみのそこ
スイに片目をくれた蟲師は、季節が移る前にまた訪ねてきた。
左目には新しい義眼が入っていた。そして、同じような義眼を三個携えていた。
スイの左目になっているのと同じ碧の瞳のを一つ。それから、普通の人間と同じような、黒と茶色の混ざった瞳のを、二つ。
――眼窩が空洞のままでは、骨が歪むかもしれないそうだ。
頭の筋肉の力に骨が負けてしまわないように、右にも支えになる義眼を入れておいたほうがいいと言う。
――碧色では、目立つからな。
黒の瞳に取り替えないか、といった蟲師に、スイは少し考えて頭を振った。
――このままがいい。
そうか、と蟲師は頷いた。
だからスイの両目は碧い。
あの蟲師と同じだ。
スイが視力を取り戻して間もなく、本家から迎えが来た。
スイは眼病の療養を名目にこの家に預けられていたのだから、病が癒えれば本家に戻るのは筋だ。頭ではそう理解できるものの、ビキはどうにも納得がいかなかった。
――手紙書くね。ビキも頂戴ね。
華やかな晴れ着を着せられ、髪を結ったスイは知らない人のように見えた。
あれからもう五年、スイとは直接話していない。
会おうと思えば会えなくはない。本家に集まりごとがあるときは、母も気にして声をかけてくれるのだが、ビキはいつも行かない、と答えていた。
去年の秋、本家筋の大叔父の葬式で遠く見かけたスイは、随分と背が伸びたようだった。
髪も伸びていた。肩より長く垂れた髪に大きな蝶を留まらせたようなリボンをつけて微笑むスイは、ビキの知らない人のようだった。
「お嬢さんね、お嫁入りが決まったんだって」
本家へ届け物をして戻った母は、さりげない風に言った。
本家には娘が何人かあるが、未婚は末娘のスイだけだ。
「……そう」
「何かお祝いを贈らないとね。何がいいだろうね」
「解らない」
素気なく言いすててビキは部屋に戻った。
文机の一番下の抽斗には、手紙の束が仕舞ってある。娘らしい淡い色の便箋に綴られた、スイの便りだ。
初めの頃はビキも熱心に返事を出した。スイの好きだった花を押し花にしたのや、綺麗な落ち葉を同封したりもした。
でも、今は決まりきった季節の挨拶程度に葉書を出す程度だ。スイからの便りも、間遠になった。
素直に言葉が綴れなくなったのはいつからだろう。
――分家ごときが、図々しい。
いつかの法事で、本家筋の家に手伝いに行ったとき、裏で母がそう詰られているのを見てしまった。
――子供のことですから。もう少し大人になれば、ビキも弁えるでしょう。
母は柔らかい言葉で返答していたが、肩が強張っていた。
それまでもその後も、母から直接何か言われたことはない。それでも、自然に弁えた。
(嫁に行くなんて、少しも書いてなかったじゃないか)
一番新しい手紙を開く。細い筆文字で綴られているのは、女学校のこと、庭の眺め、街で見た珍しいものごと……
もう本当に遠い人になるのだ、とビキは溜息をついた。
ビキが知ろうとしなくても、お節介者がいろいろと情報を寄越す。ビキが欲しがらないものまで、得意顔して持ってくる。
――スイお嬢さんのお相手は、二十も年上だそうですよ。
――材木の売買で儲けたそうで、そりゃあ大した羽振りだとか。
――それにしても×××とは遠い。海を越えなきゃならんじゃないか。
――まだお若いのに、そんな遠くへお嫁入りじゃあお嬢さんも心細かろうにね。
――ほら、やっぱりあの病気がね……
――早いとこ片付けちまおうって考えかね。冷たいねぇ……
――お金持ちなんてそんなものかね。実の娘にねえ。
うるさい、と怒鳴りたいのを堪える。怒鳴れば彼らは、おまえに言ってるんじゃないと薄笑いを浮かべるのだ。
(聞こえるように話してる癖に)
彼らは、ビキとスイの仲を誤解している。幼友達を恋人に読み替え、本家と分家の欲得をまぶしておもしろおかしい猿芝居に仕立てようとしている。
雑音を遮断したいとき、ビキは蔵に入る。
もちろん、スイが暮らしていたときのままではない。家財はスイがここを去るときに片付けられ、畳も上げてしまって今は櫃や行李の積み重なる、ただの蔵だ。
この闇の中で、スイと遊んだ。
本家も分家も、男も女もなかった。
どうしてそれでは駄目なのか。「弁える」とは何のことだ。子供の頃と、ビキは何も変わっていないのに、回りが勝手なことを言う。
ビキの中では、今も昔もスイは変わらない。姉のような、妹のような、大切な友人だ。
闇の中でもやもやと膝を抱えていると、ぼんやりと物の輪郭が見えてくる。最初はただ闇一色に塗りつぶされていたはずなのに、闇に濃淡がついてくる。
――地面の下に光の河が流れてるからよ。
両目を眼帯に塞がれたまま、闇の中でスイはそう言った。
真の暗闇の中でスイが見ていたその河を、ビキはほんの一瞬しか見られなかった。それでも、魂を吸い寄せられるようなその光の美しさは憶えている。
(スイ)
瞼を閉じる。スイはなんと言っていたか。
――本当のまっ暗闇が欲しい時
――そのチカチカを見ている目玉を
――もう一度閉じるの……
「ビキ。どこに居るの」
不意に名を呼ばれて、ビキは竦んだ。急に目を開けたせいか、平衡感覚がおかしい。
「ここだよ。何、かあさん」
「あらまあお前、またそんなところに……埃まみれじゃないか」
呆れたように声を上げる母の後ろに、知らない男の姿が見えた。
「お客様だよ、早く着替えて座敷においで」
「ああ、構いませんから」
男はちょっと帽子を外して、ビキに会釈をした。
「こんにちは。初めまして、ビキ君」
大人同士がやるように、握手を求める。つられて差し出した手も埃に汚れていて、ビキは慌てて手を引っ込め、代わりに深く頭を下げた。
「最敬礼だなあ」
男は笑うと帽子を胸に当て、同じように腰から深く体を折った。
「ああ、これが……お嬢さんのいた蔵」
その言葉でぴんときた。
(スイの相手だ)
なぜここに、という困惑よりも警戒が先に立った。
男は、強張ったビキの表情を気にかける風もなく、中を見せてもらえますか、と母を振り返った。
「散らかっておりますから。暗いですし」
「構いません、ちょっとだけ」
男はもともと細い目をいっそう細めて微笑むと、半分開いたままの蔵の扉を押し開いた。
「……スイが住んでた頃とは違うよ」
「うん」
「これ、ビキ」
手燭を差し出しながら、婚約者の前で呼び捨てにしたのを嗜める母に、男は笑って頭を振った。
「お嬢さんも、君のことをビキと呼んでいた」
明かりは結構、と母ごと退けて、男は蔵の扉を閉める。
暗闇が周囲を満たす。
「……この闇の中で、お嬢さんはどれくらい暮らしたんだろう」
「……だいたい半年、です」
「そうか」
太い溜息が聞こえた。
「お嬢さんは、ここでのことをとても楽しそうに話してくれた」
ビキはびくりと身を強張らせた。
(話したのか)
闇に慣れていたビキの目のほうが順応が早いはずだ。暗闇の中に、男の体の輪郭が浮かんできた。
背が高い。横幅も広い。噂が本当だとしたら、年齢もビキやスイの倍以上だ。
スイはこの男に嫁ぐことに、納得しているのか。