言えない。
「ま、待って下さい、ルヴァ様……!」
普段アンジェリークに合わせてゆっくり歩くルヴァが、今日に限ってはずんずんと先へ進んでいってしまう。
視界の先では既に執務室の扉が閉まり始めた。アンジェリークはなんだか置いて行かれた感覚に胸が苦しくなる。
ようやくルヴァの執務室へ入ると、彼の姿はもう書架の奥に消えているようだった。ぱたり、ぱたりと本を重ねる音がする方へ歩を進める。
「……アンジェ、こちらです」
声のするほうを覗き込むと、幾つかの本を片手にルヴァが振り返り、淡く微笑んだ。
「あの……ルヴァ様、怒ってますか。もしかして変な質問だったんでしょうか」
今にも泣きそうな様子のアンジェリークに、ルヴァは居た堪れない気持ちになる。
「いいえ、そんなことはないんですよー。ただ、表立って口にするには少々憚られる答えでしたので……それに」
手に持っていた本を棚の空いたところに置き、ルヴァの手がそのままアンジェリークの両肩に置かれた。
「それに……クラヴィスと、公園に行ったと聞いて……その」
ルヴァの手に少しだけ力が入り、アンジェリークの背が書架へと軽く押し付けられる。
「ルヴァ様……?」
「……ちょっと、妬いてしまったんです。ひとときでも、あなたを取られたような気がして……あなたは誰のものでもないと言うのに」
いくら恋人だからといって、その行動全てを思い通りにはできないもの。それが時としてとても歯がゆく感じる瞬間がある。
切なげに寄せられた眉に、じっと覗き込んでくるまなざしに、アンジェリークは射抜かれたように動けずにいた。
「クラヴィス様とデートしたわけじゃないんですよ、ルヴァ様。偶然公園でお会いしたので、ちょこっとお話していただけなんです。でも……ごめんなさい。わたし無神経でした」
しんと静まり返った執務室の奥で、見詰め合う二人の鼓動だけが鳴り響く。
「ええ、分かっています。あなたを疑っているわけじゃないんです。それでもね、アンジェ……他の人と過ごした時間の分だけ、あなたを奪い返したいんです」
引き付け合う磁石のように、二人の唇が重なった。啄ばむ程度の口付けはやがて、貪るような激しさへと変わっていく。
口付けの激しさとは裏腹にルヴァの片手がアンジェリークの身体を確かめるように優しく這い回る。
「さっきの質問の答え、知りたいですか」
耳元で熱く囁かれた声に、アンジェリークはぞくりと粟立った。声もなく頷くとアンジェリークの手が掴まれ、そっと導かれた。
「かたくなってる」
その余りにも率直な感想に、ルヴァは苦笑を禁じ得ないでいた。
「そっちじゃなくて、その下です」
アンジェリークの手に、ふにっと柔らかい感触が当たった。
「犬のこの部分のこと、ですよ。果実の形が似ているということで…………あの、揉まないで」
その部分の感触が珍しいのか、やたらめったら揉まれた。見ればアンジェリークはすっかり蕩けた顔になっている。ルヴァとしてももうこのまま引き下がるつもりなどなかったため、再び細い身体をを書架に押し付けるように密着して囁いた。
「……この執務室、今から出入り禁止にしちゃってもいいでしょうか……」
潤んだ瞳で微笑んだアンジェリークのかかとが少しだけ浮かび、その答えがターバンとともに絡まり落ちた。
その後、結局開かれることのなかった図鑑はそのまま元に戻されたという。
余談だが、世間で一般的なオオイヌノフグリの果実は犬のフグリには似ていない。大元のイヌノフグリは現在、絶滅危惧種である。