あなたを包む優雨
出自、奴隷らしいぞ。
給仕室。覚えのある顔がまた、聞えよがしに言っている。辟易としてため息を吐こうにもどうしたことか口は弓なりに固く結われ、思えば呼吸もし難い。
ひとつ、大きく息を吸う。けれど上手く吐き出せなくて、余計に苦しくなる。
出自の話を誰が言い出したのかは知らないけれど、話にはなんの誤りもなく、私は確かに正真正銘、解放奴隷の子。本来ならば宮殿に出入りできる様な身分ではない。例え奴隷解放令が発令され全国の奴隷が自由民になっていても、奴隷解放令はまだ法令でしかなく、奴隷達が人となる日は、まだもう少し先だという事も分かっている。
気にする事はない。言わせておけばいい。今日も自身にそう言い聞かせる。だって、恥ずべきことではないと、敬愛するお方に教えて頂いたのだから。お仕えしたいと思えた新しい主は、そんな私を友と呼んでくださるのだから。何にも恥ずかしい事はない。悲しむ事でもない。早く、汚れを含んで茶色くなった泡の中から皿たちを助け出して、此処を去ってしまおう。気を取り直そうとして、失敗する。機械仕掛けの玩具の様にしか手が動かない。
「ナルサス卿の侍童だったそうではないか。奴も先王の忌諱に触れた輩。あのようなものどもを重用するなど国王陛下は随分酔狂であらせられる」
「違いない。」同調する男の声が二つは聞こえた。
ああ嫌だ。ナルサス様をあんな風に言われて、陛下にあらぬ謂れをつけさせて、私は何にも出来ない。嫌だ。本当に、嫌だ。
***
ちらほらと瑞々しく若い紫陽花の萼が広がり始めていた。この日は梅雨の気配を連れてくるような雨。雨粒たちのひとつひとつ弾ける音を聞きながら、主である国王の朝食をお部屋にまで運ぶ。
給餌を許可された者は他に何人もいる。けれど毒味を通す回数が極端に少なくて済む事と陛下が「朝くらい気兼ねなくエラムと共にごはんを食べたい。」と仰ってくださった事の二つの理由を持って、その任を概ね一人で賄っている。散々、一部の高官から信用ならないと言われたけれど、それでも指示を頂いた時はとてもとても誇らしく、また何より喜ばしく思えた。 そこに主従関係の他に簡単には築けないものがあることを知っていたから、余計に。
今日の雨は重さが無くどこか現実味がない。さらさらと、延々と、降り続きそうだからかもしれない。止まない雨はないと言うけれど、この雨はいつまででも地面を濡らし続けそうだ。
配膳が終われば、寝所へ陛下を起こしに行く。きっと、陛下はまだ寝ておられる。重責のなか激務をこなす朝の弱い主を起こすたびに胸が痛むけれど、せめてより良い朝を迎えれるように、毎朝笑顔でおはようございます、と言うよう心掛けている。朝の、お顔色の優れない陛下はいつも「エラムの笑顔をみたら今日も一日頑張れる。」そう言ってくだかるから、そのお言葉が本心からだと思うから、私は毎朝笑顔で挨拶をする。私には、陛下の御為に、それくらいしかできない。
せめて天気くらい晴れやかであればいいのに。雨の日はナルサス様も偏頭痛に悩まされてよく顔を顰めていらっしゃった。どうして差し上げることも出来ずに、せめて安静でいられるよう身の回りの事をさせて頂いてた事をふと、思い出す。こういう日、ナルサス様は食欲が無いからと何も食べようとなさらなくて、けれど私の作ったソラマメのスープだけは好んで食べてくださっていた。雨の日の「エラムのあれが食べたい。」は、ソラマメのスープの事。それがお決まりになる程に。
今日、ナルサス様はどのような日を迎えられるだろう。ナルサス様はきちんと、朝、起きれただろうか。
廊下を行く足取りは、どこか遠い所から雨によって連れてこられた、この湿度の高い空気に絡まるようだ。早く、雨が止めばいいのに。そうすれば、みんな晴れ晴れと過ごせるのに。
***
「エラム!市井へ!行きたい!」
「構いませんが……、それではフィールズ地方の農村部への補助金支給が明々後日以降になってしまいます。わかっておいででしょうけれど延びて困るのは現地の方々ですよ」
「うぐっ……」
「決算は本日の午後、あと二刻後。遅らそうものならば今度は文官が頭を抱えてしまいますが」
「ううう……」
「それでも宜しいのでしたらお伴します」
「……エラム、……次の書類、…持ってきて……」
誘導しておいて何だが、陛下は余程のことでもない限りご自分のことを優先なさらない。元々自己犠牲的なお方だとは思っていたけれど、近ごろはもう少しご自身を大切にしてくれと声を荒げたくなりもする。片付けても片付けても片付かない書類の山。会っても会っても終わらない謁見。たまに、陛下は周りが心配で泡を吹きそうになる位にまで根を詰める事もある。けれど、今は息抜きよりもやるべきことはやって頂かなければ。お目付役として見逃すわけにもいかない。
ふぐふぐ言いながら机に突っ伏した若年の国王に胸中で小さく謝意を述べて、もうしばらくしたら好物の果物をお持ちしようと決める。
さて、書類をお渡ししないと。
踵を返そうとした時、唐突に「あ!」大きな声が鼓膜を叩いた。
「こぼしちゃった」
見やれば、インクの入った器を突っ伏したと同時にひっくり返したらしい。机の上は真っ黒。慌ててインクの器を立て直すも、既に自由の身となった黒はだらだらと机から溢れ落ち、床や、質素ながらに上質な国王の衣服にも汚れが広がる。簡単には落ちそうにない染み。書類なんてひとたまりもない。にも関わらず、やっちゃった、と頭を掻き照れ笑いを浮かべている少年。あの頃と、何も変わらないあどけなさを持つ少年。
何故だか頬が柔らかくなる。微笑んでしまいそうで、けれど、言うべきことは言わなければ。
「とりあえず、お召し物を替えましょう」
言ったそばから国王は汚れた手で顔にかかった髪を払う。つややかな頬にすっと引かれた、黒い線。長い袖が机を掠めて新しい染みが出来上がる。
「……陛下………」
「うん?」
「とりあえず、動かないでください」
これでは湯浴みすることになってしまいそうだ。一縷の悪意さえない国王は色々な意味で奇跡の星の下に生まれたのだと、常々思う。私はもう一度念押しして、水桶と衣類を持って来るべく急ぎ足で部屋を出た。
***
幸いなことに国王が没にしてしまった書類には控えがあった。文官が纏め上げる前の出納票一切を残していたのだ。一昔前、ナルサス様が宮仕えなさっていた頃には悪辣な輩がその世襲の地位のみでついていた官職だそうだが、優秀な人物がその能力を発揮できない体制でもあったのだろう、いまや国に欠くことの出来ない人材が揃っているように思える。体制を一新する際頭を過ぎった、能力がなくとも頭数がいた方がいいのでは、という考えは若造の浅慮でしかなかった。そう言った価値のない瓦礫を一掃しただけで、貴石が出てきたのだから。
「迷惑ばかりかけてすまない……」