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あなたを包む優雨

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 文官に急いで纏め上げて貰った書類を持って行けば、既に衣替えを行い、別の案件の処理に追われている国王が手を止め深々と臣下に謝った。そんな、謝られるようなことなど。首を振り慌てて言うが、それでも顔を上げない。強国パルスの国王であらせられるこのお方は、私なんかに心の底から謝っておられる。臣下でしかない、私に。
 このお方の心からの言葉や行動を、昔は跳ね除ける事しか出来なかった。どうせ、という気持ちが拭いきれなかったからだ。でも今は違う。このお方と旅という濃密な時間を過ごして、その、どうせ、という気持ちはいつの間にか消えていった。厚意というにはあまりに温かいそれを受け取る事を、少しは覚えた。多分、友達になって欲しい、と言われたあの頃あたりから。

「明日、きっと市井へ行きましょう」

 書類を差し出しながら言えば、国王はぱっと明るい顔を上げて大きく頷いた。私が頷き返せば、更に笑顔が溢れる。明日は晴れますように。きっと、晴れますように。そう何度も胸中で願った。


***


 願いは虚しく届かなかった。雨。けれど陛下はそんな雨でも全く気落ちすることはなく、今日の粒立った雨をむしろ好んでいるようだった。

「濡れるといけないからと、皆がダリューンみたいにあれやこれやと私の頭の上を遮るのだ」

 雨具一枚あればそれだけでいいのに。そう付け足し陛下は口を尖らせる。帽子のついた雨具に身を包んだ彼は照る照る坊主のようで、その長い袖と丈にすっぽりと覆われている。あまり体格の変わらない私も、もしかしたら陛下にそう見えているのかもしれない。
 雨具越しに、雨粒が当たる感覚。弾ける音、安らぐ匂い。しんとした湿度。閑散さ。
 陛下はどちらかと言えば、あまり大人数でいる事を好まないようだった。こうして適度な距離感を保って、ゆらゆらと他愛なく話している時が一番、あの頃の、陛下らしいお顔をなさる。

「朝陽がみれないのは寂しいけれど、こうして雨に触れられるなら、雨の日も悪くないなって思えるよ」

 長い袖からすっと差し出された陛下の白い手に、雨粒が弾ける。愛おしそうに自然に触れる陛下は、とても穏やかなお顔をしていて、その雫のひとつひとつを慈しんでいるようだった。
 市井からの帰り道。私の腕の中には市場で買った食材。ソラマメと鶏肉、香辛料と山羊乳。雨に濡れないようにと店々で丁寧に梱包してくれたそれを、陛下がふと、持ち上げる。

「ほら、エラムも触ってみて」

 主に、しかもこの国で一番尊いお人に荷物を持たせて、けれど命令ではない願いを叶えるため、私は手を差し出す。
 荒れた手。弓を引く機会が減った分、水仕事が増えた。それでも固くなった皮膚は簡単には柔らかくならない。丸い雫をきらきらと弾く陛下の白い手とは、大違いだ。
 ぱらり、ぴちょん。雨粒が肌に瞬く。思いの外それは優しくて、心地よかった。陛下が微笑みながらこちらをみている。私も、微笑み返した。


***


 本格的な梅雨が気付けばやってきていた。そして案の定、ナルサス様のお顔色は優れなかった。

「出来ましたよ」

 木彫りの椀にたっぷりと注いだソラマメのスープを差し出す。
 ナルサス様の邸宅の厨房には上質な陶器がずらりと並ぶ棚が二つもあった。その片隅に、何故だか木彫りの椀が大きさを違えて四つ備えてあって、私の手は上等なそれらより木製の器を選んだ。バシュル山荘で良く使っていた椀に、とてもよく似ていた。
 
「エラム〜……」

 豪奢な寝台に上体を起こしている元主の視線が言うには、ナルサス様は食べさせてくれ、と仰りたいらしい。訴える視線はパルス一の知将と名高い副宰相のそれとは全くの別物で、けれど私はこの眼差しをよく知っている。

「もう、ご自身で御食べください。匙はこちらにあります」

 ぴっと匙を差し出しても、ナルサス様は受け取ろうとしない。

「無理だ……、腕を動かせば頭に響く……」
「ナルサス様はいつから子供返りなされたのですか」
「子供返りではないぞ、俺はいま病人だ病人。看病くらいしてくれてもよかろう?」

 病人でも手が使えたら自力で食べます、と、言いかけた口を慌てて閉じる。記憶と共にぽかぽかと湧いてくる心の温かさを、ほんの少しでも逃してしたくなくて。

「懐かしい。いい匂いだ」

 菫色の瞳がくしゃりと笑う。
 私は慣れた手つきでとろんとしたスープを匙で掬い、控え目に息を吹きかける。ナルサス様は熱いのが苦手だ。空腹に駆り立てられ思わずかぶり付き、後悔している姿を幾度となく見て来た。
 息を吹きかければふわりふわりと白い湯気がそよぎ、スープの、刺激の少ない食材そのものを感じさせる匂いが鼻腔を擽る。木彫りの椀はじんわりと温かく、肌馴染みがいい。
 どうぞ。
 匙を差し出せば、素直な口の中へ。一口含んだ瞬間にナルサス様はにっこりとして、美味しい、と言ってくださった。何故だか、無性に懐かしさが込み上げて頬が熱くなる。思わず、顔を背けてしまう。

「丹精込めて作りましたから。美味しくないわけな、わ!!」

 すると急に自重が前のめりになった。慌てて椀の中身をこぼさないように均衡を保つ。そして気付く。ナルサス様に抱き寄せられていることに。

「覚えていてくれたんだね」

 温かい。穏やかな鼓動。懐かしい匂い。思わず、目を閉じてしまう。

「忘れたりなど、致しません」

 腕を動かしたら頭に響くと言っていた元主は、抱き寄せている私の背中をとんとんと、昔のように優しく叩いた。ありがとう。鼓膜を揺らすその言葉に、思わず涙が出そうになった。



***



 梅雨が明ける頃には紫陽花はますます色づき、その存在をおおらかにしていた。私は紫陽花がとても好きだ。控えめな大きさではないのに決して主張し過ぎず、季節の移ろいをその色で教えてくれる。まるで春から夏へゆく雨を、優しく導いているように。
 東側の回路の一階からは中庭に植えられた紫陽花並木が一番美しく見える。此処を通る時には必ずそこへ目を向けてしまう。雨を吸い色を変えていった紫陽花は、この先どのような色へ変わっていくのだろう。そんな事を、思いながら。

「奴隷あがりだ」

 ふと、息が詰まった。

「解放奴隷が侍衛長など笑止千万。低俗民は己の為ならばなんでもすると聞いたが、いかにして陛下に取り入ったかお聞きしたいものだ」

 振り返ることが出来なくて、けれど明らかに聞こえるように言っていることが分かる。複数の笑い声。嫌な笑い声。
 気にしない。気にしない。気にする必要などない。恥ずべき事ではないのだから。私は此処にいたくて、そして必要とされて、後ろ暗い事など一つもなくて。
 なのに。

(なぜ口が開かないんだ)

 ああ、嫌だ。言い聞かせている自分も嫌だ。悲しくないふりをしている自分も、立ち尽くしている自分も、すごく嫌だ。自由と尊厳を教えてもらった。居場所と生き甲斐を与えてもらった。それでも。それなのに。私は、私だ。
 また心臓を鷲掴みにされる。誰のものでもない私の心臓を。早く解放して欲しい。私はここから動けないから、せめて、早く。

「お前たち」

 静かで、それでいてはっきりとした声音が聞こえた。
作品名:あなたを包む優雨 作家名:あき