あなたを包む優雨
「こっ…!これは、陛下……!」
陛下?
「何の話をしていたのかな?聞かせてくれないか」
「い、いえ、お耳汚しになりますゆえ」
「おや、耳汚しになるのかい?」
やっとの思いで振り返れば、甲冑姿の若い警備兵三人と陛下が回路の真ん中で向かい合っていた。陛下はいつもと何ら変わらない笑顔で、けれど兵たちの顔は引きつっている。それはとても奇怪な光景だった。片方は恐縮して身を縮こませ、片方はにっこりとたおやかにしているのだから。
けれど、兵たちが顔を強張らせている理由は分かる。陛下の纏う空気がきりきりと、まるで氷麗のように冷たく鋭利だったからだ。
怒って、くださってる。
「私の大切なひとの出自が耳汚しになるだなんて、それは心外だな」
陛下の一言で兵たちは唐突に背を正し、直後口々に謝罪を述べながら深々と頭を下げた。「私に頭を下げられても。」陛下の怒りは、治らない。
私は思わず駆け寄ってお止めしようとした。私なんかのためにお気を煩わせるなどあってはならない。私ならば大丈夫。大丈夫なのだから。
私の足音に顔を上げた兵たちに、けれど陛下は無言の命令を下していた。私が口を挟む間もなく兵たちはそれを受け、こちらに向かい直し絞り出した謝意を口にする。私は、困惑した。どう受け取るのが正解か、わからなかった。けれど反応は返さなくてはならない。
困惑しながらも両手を前に出して口を開こうとした時、「そなたらの頭は人によって重さが変わるのかい?」陛下の、穏やかな声音。
「私への言葉ならいくらでも言ってくれ。真摯に受け止めたい。精進するよ。けれどね、大切な臣下を蔑むことだけは私は決して許さない」
「い、いえ、決してそのような……!」
「うん。そうか、なら良いんだ」
ふふっ、と陛下は殊更穏やかに笑って「下がっていいよ。」そう言った。甲冑の音を忙しなく鳴らしながら兵たちが去っていく。陛下はその後ろ姿には目もくれず、立ち尽くしていた私に駆け寄りばっと飛びついた。
「わ!へ、陛下…っ」
思わず後ろに倒れかかりそうになるほどの勢いで、けれどなんとか片足を引いて堪える。陛下は、何も言わない。何も言わないで、ただひたすら私を強く抱きしめている。
出会った頃から比べれば、随分お互い大きくなった。体格も良くなった。背も伸びた。出逢った頃ほとんど変わらなかった身長差は、今でも変わらない。同じだけ、同じように伸びた。それを、密かに嬉しく思っていた。
「陛下……」
ふと、先ほどの兵たちが消えていった手前の廊下を曲がり現れた人影が二つ。いつもの白っぽい服装をしたナルサス様と甲冑姿のダリューン様。二人はこちらに、けれど全く怪訝そうにはせずに目尻を下げながら近づいてくる。
「どのようなご奉仕をしたんだい?エラム。陛下から抱擁を賜るとは」
ナルサス様は優しい苦笑を浮かべている。尋ねられて、私は言葉に詰まる。
何にもしていない。私は、いつだって、何にも。
今だって。
陛下はずっと何も言わないままきつく抱きしめて下さっている。
「抱き返して差し上げないのか?」
ナルサス様と似たような表情をしているダリューン様は私の、行き場のない固まったままの腕を見やりながら言った。
「わ、私なんかが……っ!」
「うん?」
「私なんかがそんな不相応なこと!」
「不相応?」ダリューン様はいつものように、その精悍な顔立ちにくしゃりと笑顔を乗せる。
「その、」
陛下の声。
「私なんか、って、やめないかい?」
陛下は、広いとは言えない私の骨張った肩に顔を埋めたまま続ける。
「エラムはエラムで、私の大切なエラムなんだから」
小さく、鼻をすする音が聞こえた。
「本当はね、朝、宮殿で目覚めるの、苦手だったんだ。子供の頃を思い出してしまって。でも、エラムが起こしに来てくれるから。私は昔に戻ったんじゃなくて、ちゃんとみんなとの旅の続きで此処にいるんだって、教えてくれるから。……本当は怖かったんだ。国王になったらみんな叱ってくれなくなるんじゃないかって。そうしていつか気付かない内に暴君になってしまうんじゃないかって。息抜きも出来ずに一生閉じ込められるんじゃないかって。でも、みんなみんな、エラムがいてくれるから、私は、……」
陛下は、顔を上げない。私も、思わず顔を伏せた。
「ありがとう、エラム。ありがとう」
腕を、おもむろに上げる。そして恐る恐る、自分となんにも変わらない身体を、抱きしめ返す。言葉は出ない。代わりに涙が溢れる。何にも言えない。何も浮かばない。代わりに、心が満たされる。胸が苦しい。苦しくて、幸せで。
紫陽花は、このあとどんな色に変わっていくのだろう。来年も、変わらずに咲いてくれるだろうか。
ああ、そうだ。いつか、国政がもっと落ち着きを見せたら、ナルサス様の邸宅をお借りしてソラマメのスープを作ろう。きっと、その日はまた、雨で。木彫りの椀はちょうど四つ。一番大きなものをダリューン様に、その次に大きいものをナルサス様に、陛下と、それから私にも。きっと、きっとぴったりの大きさだ。それで話すんだ。旅が始まったあの日の話を。これからの、国の行く先を。
ふと、視界が晴れる。けれどまたすぐに滲む。その合間にナルサス様とダリューン様が微笑み混じりに顔を見合わせているのが見えた。
梅雨の明ける間際の、ある晴れた日の事だった。
あとがき
唐突にほのぼのが書きたくなって書きました。視点を理解しない小説が好きなので結局は神様視点に戻ると思われますが、いやはや、たまに書くととても楽しいですね。
近頃タグ追加していただける事が増えて嬉しさに震えております。ありがとうございます。ものすごく、ものすごく励みになります。評価もブクマも。リアクションがあるとこんなにも嬉しいのですね。
また次作、ご縁あればお会いできますように。