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Green Hills 第10幕 「冬霞」

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Green Hills 第10幕 「冬霞」


「契約は、解除するわね」
 遠坂邸のリビングで、紅茶を一口飲んでから、凛は、はっきりと告げた。
「……了解した」
 少しの間はあったものの、アーチャーもはっきりと答える。
「何も言わないの?」
「凛の決めたことに、私が口を出すと思うか?」
 シニカルな笑みを見せる従者に、凛はムッとする。
「そうよねー。あなたは私の従者だものねー」
 可愛くない、と紅茶を飲む凛に、アーチャーは苦笑しつつ、ティーポットを持ってキッチンへ向かった。
 こぼしそうになったため息を飲み込んで、食器を洗う。
 高校を卒業して凛はロンドンに行く。それは、もうずいぶんと前から彼女の中で決まっていたことだ。凛は遠坂の名に恥じぬ魔術師となるため、時計塔で学ぶことを前提としていた。それは彼女の人生設計の一つ。そこから彼女の未来は無限に広がっていくことになる。
 そして、そこに英霊などという従者を連れて行けるはずもなく、凛はきっぱりと契約は解除すると決めた。
 登校する凛を見送り、アーチャーは窓辺の壁に身体を預ける。
「まあ、私がここに残った意味など、はじめからありはしなかったのだからな」
 ひとり肩を竦め、呟く。
「あの朝、私は消えて、座に還るはずだった。それが、アレのおかげで……。ずいぶんと長く留まってしまうはめになったものだな」
 アーチャーは小さく笑う。
「ここに留まった意味など……ない……」
 本当にそうか?
 本当にないと、言い切れるのか。
 意味などなかったと言えるのか。
「…………」
 窓から離れ、玄関へ向かう。
 顔が見たいと思った。どうしようもなく、抱きしめたいと思う。
「セイバー……」
 アーチャーは、遠坂邸を出て坂を下った。



「ロンドンに行くよ」
 朝食の時間、唐突に士郎は言う。
 食卓に揃っていた藤村大河も間桐桜も目を丸くして、声を発しない。
「そっか」
 唯一、反応したのは、シロウだ。
「セイバー、だから、……っ」
 全ては言わず、士郎は真一文字に唇を引き結んだ。
「うん、それでいいよ」
 眉根を寄せる士郎の頭を、ぽんぽん、と軽く叩き、シロウは笑った。
「がんばれ、士郎の人生だからな」
 何度も頷く士郎の頭を撫でる。
 士郎が何も言わなくても、その表情を見ているだけで、シロウにはわかる。自分とアーチャーのことをいろいろと考えてくれていたのだろう、と痛いほどにわかった。
 士郎はずっとアーチャーとのことを心配してくれていた。
 消えようとする自分をこの世界に留めて、アーチャーと話し合う機会を作ってくれた。アーチャーにうまく伝わらないことで落ち込んでいた時は、いつも士郎が励ましてくれていた。
「セイバー、ごめんな……」
 呟くようにこぼれた謝罪に、シロウは首を振る。士郎のその心をありがたく思う。
「大丈夫。俺の方こそ、ありがとうって言わないと」
「ちゃんと、なるから」
「うん」
「俺も、後悔しない道を行くから」
 真っ直ぐに見つめてくる琥珀色の瞳を、シロウは少し驚いて見つめ、そして、絶対に忘れることはないだろう、と思った。
(俺とも、アーチャーとも違う道を、士郎は行くんだろうな……)
 このエミヤシロウもまた、誰かのために生き、誰かのために死んでいくのだろう。
 彼にも無限の未来が広がっている。辛い道でも平坦な道でも、ただ後悔のないように、とシロウは祈ることしかできない。
「士郎の理想を、叶えることができると、いいな」
 頷く士郎が溜まらずシロウに抱きつく。
「はは、苦しいって」
 背中をあやすように軽く叩いて、シロウは笑った。

 学校へ向かう士郎たちを見送って、朝食の後片付けをはじめる。
「そっか……、春まで、だなぁ……」
 ここにいられるのは、春までだ。ロンドンに行く前に契約は解除する、と大河と桜がいる手前、士郎は口には出さなかったが、そう示唆した。
「もう、いられないんだな……」
 こぼれそうになる涙を何度も瞬いて堪え、食器を洗う。ひと通り家事を済ませて、静まり返った屋敷の中を、意味もなく歩いた。
 ここで生きていた頃は、家にいても感慨など覚えなかったというのに、不思議だなとシロウは思う。
「思い出は、たくさんあったけど、今の俺にとっては……」
 一人の姿が浮かぶ。
 追いかけ続けた姿、追いかけて、そして、触れた、その背中をどうしても思い出す。
「っ……」
 シロウは慌てて玄関を出た。
 無性に会いたい。今会ってしまっては、泣いてしまいそうなのに、ただその顔を、穏やかに笑ってくれる顔を見たい。
「アーチャー!」
 屋敷を出て駆け出した。


 交差点に着くころには、息が上がっている。魔力の少なさからくる体力不足が今は恨めしい。膝に手をついて呼吸を整え、顔を上げる。
「あ……」
 向かおうとした先に見えた人影に、シロウはうれしくなった。
 向こうもこちらに気づいたようで歩調を上げている。
 待っていられず、シロウが交差点を渡ろうとした瞬間、
「セイバー!」
 アーチャーの声がシロウの足を止める。跳び出ようとしたシロウの前を車が過ぎた。
 車が来ないことを確認してからアーチャーが道路を渡ってくる。
「まったく……」
「ごめん」
 呆れた声で近づくアーチャーに、バツ悪そうに上目で見上げ、シロウは謝った。
「小学生か、お前は」
 ぽん、と頭に置かれた手の温かさに、シロウは我慢できず、アーチャーに抱きついた。
「おい……」
 往来で何をしている、とアーチャーは言うが、引き剥がす気配はない。
「……なあ、セイバー、コーヒーが飲みたくなったな」
 しばらくそのままでいたアーチャーが、ぽつり、とこぼした。
 顔を上げたシロウが、アーチャーから離れる。
「俺もクリームたっぷりのラテが飲みたくなった」
 ふ、と笑ったアーチャーとともに歩き出す。
 シロウの好きな、あの店へ。二人で行こうと言った、あのコーヒーショップへ。


「セイバー」
「うん?」
「聞いたか?」
「うん」
「そうか」
「……うん」
 夕飯の食材を手に、衛宮邸へ向かう帰り道、並んで歩きながら短い言葉を交わす。衛宮邸の門を潜り、シロウは足元を見つめたまま口を開く。
「アーチャー」
「なんだ?」
「……従おう」
「ああ」
 思っていた通りの答えに、シロウは、よかった、と思う。自分はグズグズになりそうだから、せめて、アーチャーだけでも毅然としていてもらいたいとシロウは思い、そう言ったのだが、杞憂に終わった。これなら、大丈夫だと、シロウはほっとする。
「俺たちは、従うしかな――」
 衛宮邸の玄関を入って、アーチャーにきつく抱きしめられ、声を飲んだ。
「ああ、従う。それが、我々の道理だ」
 飲み込みたくない現実。サーヴァントという人ではないものの宿命。そういうものになってしまった、自分たちに嵌められた、云わば、枷のようなものだ。
 アーチャーの声が苦しそうだとシロウは思う。その背に手を回して、シロウも苦しくて縋り付く。
「それまで、アーチャーといられるなら、それでいい……」
 必死に言葉を紡いだシロウの髪をアーチャーは撫でていることしかできなかった。



 呼び鈴が鳴り、玄関を開けると、いつもの来客。