Green Hills 第10幕 「冬霞」
眠っていたはずなのに、眠気など一気に吹き飛んだ。
俺の寝込みを襲うなど間抜けな暴漢もいたものだ、と目を向けると、そこには襲われては絶対に敵わないサーヴァントが黒いオーラとともにこちらを見下ろしている。
鈍色の瞳にご無沙汰だった殺意が煌めく。
「貴様、どういう了見だ」
普段から低い声が、さらに低い。肚の底が震える。
「んんんんんっ」
首を振ろうとするが、顔面の下半分を掴まれているため、動かせない。
「手を退けろ」
言われた通り、抱き込んでいたシロウからそっと手を放し、降参ポーズでアーチャーに目を向ける。
いまだその瞳は殺意をこめて睨んでくる。
両手を合わせて謝る士郎を、アーチャーは顔を掴んだまま引きずり出し、廊下へ出て、縁側から庭へ放り投げた。
「っで! て、てめぇ!」
どうにか着地しつつ、アーチャーを睨むが、士郎をやはり殺す勢いでアーチャーは見下ろしている。
「いったいどういう了見だと訊いている」
静かに問うアーチャーの声がものすごく恐ろしい。ここは下手に挑発しないことが、生き長らえるための選択肢だ。
「ま、魔力が、少しでも流れればと思ったからだ」
士郎は正直に答える。やましいことなど全くないと。
「わ、悪かった。別に、あんたを挑発しようとか、そういうことじゃないし、魔力の供給以外、他意はないから」
「あってたまるか」
「うう、だから、悪かったって……」
気を悪くするな、と謝る士郎に、アーチャーは納得したのか、しばし考えを巡らせている。
「今日の当番で手を打とう」
条件を出してきた。納得したわけではないようだ。
「は? なんだよそれ!」
「今日の当番を代われば許してやると言っている」
「ゆ、許、しっ? ふざっけんな! なんで俺がそこまで、」
「セイバーが苦しんでいるのは、誰のせいだ」
「っぐ」
士郎は反論できない。士郎がインフルエンザになど罹らなければ、シロウは熱など出さなかったのだから。
「わ、わかった、代わってやる」
ちっ、とアーチャーが舌打ちする。
「交代させていただきます、だ、小僧」
「こ、このっ」
「なんだ、文句でもあるのか? 罹患者」
握った拳の落としどころを見つけられず、士郎はがっくりと肩を落とした。
「……こ、交代させていただきますっ!」
自棄で言い切った士郎に、悠々と頷いたアーチャーは居間へ戻っていく。
「っのやろう……」
あいつのこと気にしてやったのに、と士郎は地団太を踏みながら庭から戻った。
「あら、今日はアーチャーの当番じゃなかった?」
帰宅するなり台所に立つ士郎に凛は声をかける。
「交代した」
憮然として答える士郎に、凛は首を傾げる。
「どうして?」
「…………あ、あいつも、疲れてるだろうから」
「そんなわけないじゃない。士郎の方が病み上がりなんだから、無理しちゃダメよー」
「う……、も、もう代わるって、言ったから、いいんだ」
そうなの、と凛はそれ以上つっこんで訊いてこない。
「なんで、俺が、こんな気を遣ってやらなきゃ……」
ブツブツと呟きながら夕食の準備を続け、閉めきられた襖を垣間見る。
そうか、あいつ、と、士郎はピンときた。
食事当番を鬱陶しいと思うほど傍にいたいのだ、と気づき、士郎は仕方がないか、と息を吐く。
「それにしたって、……素直じゃない」
代わってくれと言えばいいのだ。誰も断ったりしない。だが、それを素直に言うほどアーチャーは馴れ合っているつもりではないのだろう。
「十分、馴れ合ってるっての」
セイバーにしてもアーチャーにしても、世話の焼ける大人ばっかりだ、と士郎は肩を竦めた。
士郎から遅れること二日、ようやくシロウの熱が下がり、起き上がれるようになった。滞り気味だった魔力も相変わらずの微量ずつ流れている。
「お世話をかけました」
座卓で頭を下げ、夕食前にシロウはみなに感謝した。
「よくなったんだから、もういいって」
「原因が偉そうに言うな」
「っく! このっ」
「まあまあ、良かったじゃない、みんな元気になって」
凛は笑う。
「それにしても遠坂、よく感染らなかったな」
「え? あの程度のウイルス、私には効かないわ」
「え……」
にっこり笑う凛に、士郎は得体の知れないものを見る目を向けてしまった。
「久しぶりだ……」
声に振り返る前に、アーチャーに背中から抱きしめられる。
「やりにくいって」
食後の後片付けをするシロウの肩に顔を埋めてアーチャーは目を閉じる。士郎が学校を休んでいたため、昼間二人きりになれなかったのだ。アーチャーの感慨はひとしおだろう。
シロウはそれをわかっているのかいないのか、にこにこと食器を洗っている。
「セイバー?」
「なに?」
「いや……」
機嫌がいいのか、と訊こうとしたアーチャーはやめた。見ればわかるようなことを訊いても無駄だと思ったのだ。
「アーチャー、ずっと看病してくれていたな」
「ああ」
「ありがとう」
「当然だ」
後片付けを終え、シロウは手を拭く。
「うん、でも、ありがとう」
少しアーチャーが腕を緩めるので、その中でシロウは振り返る。真っ直ぐにアーチャーを見つめると、少し不機嫌そうなアーチャーがいる。
「ありがたいと思うなら――」
「うん、だから、キスをあげるよ」
言って触れた唇にアーチャーが驚いている間に、シロウの唇は離れてしまう。
「……もう一度」
にこり、と笑って、少し顔を赤くして、シロウはアーチャーに応えた。
本当は“俺をあげる”と言いたかったのだ。
けれど、残り僅かになってしまったこの幸福な時の中で、何もかもを渡して、そうして別れることの辛さが何よりも怖かった。
だから、“俺”を“キス”に代えて、本当は、全てがアーチャーのものだと、全てをあんたのものにしてほしい、と言いたいのをシロウは押し殺した。
もうすぐ春になる。
春には、別れがやってくる。それを気にすることもなく、取るに足らない日々を過ごす。
こんなにも幸せだと思える時間を、アーチャーと過ごせる。
取るに足らない、なんでもない日を、笑いながら、見つめ合いながら、……温もりを感じながら。
そうやって過ごすことができるだけでいい、とシロウは必死に思うことしかできなかった。
Green Hills 第10幕 「冬霞」 了(2016/6/17初出,10/5誤字訂正)
作品名:Green Hills 第10幕 「冬霞」 作家名:さやけ