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Quantum

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1. Quest



「―――なるほど。それは忌々しき事態ではあったな。だが、良かったではないかね、その程度の被害で済んだのだから」

 先刻、ふらりとインドの地に訪れた者との話を気だるげにシャカは返しながら、つらつらと内に降り下りてくる真理の言葉にシャカは耳を傾けていた。
 部屋一面に広げられた紙。その上でシャカは余すところなくびっしりと正確に、それこそ寸分の狂いもなく、内に降るコトノハを書き連ねていく。
 部屋の隅でくつろぎながらも、ちゃんとシャカの邪魔だけはしないでいる健気さに免じて、手を止めるようなことはしなかったけれども、シャカはきちんと話だけは聞いていたのだ。

「良かったって……また、他人事のようにきみは言う。もうずいぶんと長い間、聖域には顔を出してないでしょう?今回、聖域では結構な危機具合だったのにきみは聖域に参じることもなく、悠長に趣味に耽っていたとは」

 残念そうに、吐き出される男の溜息。

「これは趣味ではないぞ、ムウ。聖域からは定期的に連絡は入っているし、返事もきちんとしているのだから別段、呼び出されるようなことがなければわざわざ足を運ぶ必要もなかろう。何の憂いもなく、今はおぬしの師であるシオンが教皇として万全の態勢を敷いているのだから」

 と、そこで話を区切り、シャカは一度立ち上がって書き記した書の具合を俯瞰したあと、再びその場に坐した。今度こそくるりとムウの方に向き直って。

「―――今回とて、聖域の異変を感じてはいた。が、あれしきのことアテナや残った者たちでどうにかするであろうと踏んだまで。それに応援要請もなかったのでな。ちょうど、こちらも色々とやらねばならぬ事があったのだよ。今もこの通りだ。今夜中に仕上げるつもりだから、あまり邪魔はしてくれるな。しかし、このような時に不届き者たちも下らぬことをせずともよいだろうに……」
「シャカ。きみねぇ……はぁ……もう、趣味じゃなければ一体それは何なの?本業よりも熱心に思えるのは私だけ?シャカ、敵は私たちの都合など考えてはくれないよ?」

 呆れた、というよりは諦めたというような口調である。

「わかっている、ムウ。ちなみにこれは真理の言葉で――」
「それはまたの機会に、じっくりと伺うから」

 シャカがわざわざ解説してやろうとしたのだが、すかさずムウは手慣れた調子で話を遮った。比較的親しい付き合いともいえるムウ。シャカの修業の場と距離的に近いジャミールに住まう彼とは割合と行き来することが他の者と比べ、多かった。それゆえ、冗長となりがちなシャカの話をさらりとかわす術は飛び抜けてうまい。恐らく、聖域一だろう。ほんの少し臍を曲げたシャカはもう用事は済んだとばかりに再び書へと意識を戻し、真理の言葉に溺れ始める。

「ああ、それから!」

 急にムウが大声を張り上げるものだから、わずかに字が歪んでしまったのをシャカは残念がりながら「なんだね、今度は」と剣呑に答える。が、それで怯む様なムウではない。

「それを書き上げてからでもいいから、教皇宮へ足を運んでくれるかな。シオンから折り入ってきみに相談したいことがあるそうなので」
「わざわざ私に足を運べと?二度手間もいいところだ。きみに言伝てればよいものを、まったく教皇は……」
「シャ〜カ?」
「わかった、わかった。行けばよいのだろう?」
「ええ、よろしくお願いしますよ?」
「まったく生真面目だな、ムウは」
「シャカがふざけ過ぎ。けれども……」
「何かね?」
「シオンは誰よりもきみの力を頼りにしているような気が私はする」

 ほんの少し、拗ねたようにもみえたムウの表情。教皇でもあり、師でもあるシオンはムウにとってことさら特別な存在なのだろう。そんなシオンがシャカを呼びつけてまでの相談となれば、多少なりとも複雑な感情をムウは抱いたのだろうとシャカは察し、些少なことと吹き飛ばすように笑った。

「はははっ!面白い冗談だ。さぁ、戻るがいい。ムウ、きみへの労いとして、ちゃんと一週間後には聖域入りすることを約束する」
「ありがたいお言葉……って、それじゃあ、遅すぎってば、もう!それは今日中にでも出来上がるのではなかったの?まったく。これだから、時間にルーズな人って厭なんだ」
「ルーズで悪かったな……ああ、ムウ、ちょっと待て」
「はい?」

 這いつくばるように真理の文字を書き連ねていた動作を止め、のっそりと立ちあがたシャカはムウに近づく。何事だろうかと胡乱げに立ち竦んでいたムウの左肩にそっと手を置く。

「少しじっとしていたまえ。打撲?いや…軽い脱臼か?まだ痛むであろう。これで多少は痛みも引くであろう」

 わずかな違和感を覚えて触れてみればやはり肩を痛めていた様子である。ほんの少し、小宇宙を燃焼させれば、ほぼ支障ない程度に回復するだろうと。

「――この程度の怪我など」

 慌てたようにムウは身を引こうとするが、シャカ相手にかなうはずもなく、あっさり降参したように好きにさせた。痛みは引いているはずなのに僅かに表情を曇らせていた。

「ありがとう」
「よし、これでいいだろう。しかし、おまえらしくもない怪我を負って」
「……少しばかり、へまを仕出かしただけ」
「ふうん?なるほど。きみが言っていた侵入者を制圧した時かね」
「いや、あの時ではなくて。シオンからの頼まれごとでね、ちょっと。まぁシャカが気にするほどのことではないよ」
「相変わらず、無理難題を押し付けられているのかね?まぁ、なんにせよ、気をつけたまえ」

 苦笑しながら、肩を竦めて見せるムウにシャカは呆れたように溜息を吐き、くるりと元の場所へと向かい静かに座す。それでは――と風のように立ち去るムウを見送り、ほうと小さな嘆息を吐く。ムウほどの実力者が結構な危機具合と嘆くほど此度の聖域に紛れ込んだ手合いは厄介な者だったのだろうか。それとも他に何かあったのか。不可解ではあるなと思いながらも余計な詮索をしても仕方のないこととシャカは頭を切り替えようとした。

「――さて」

 とりあえず目の前の『仕事』を片付けてしまおうとシャカは気を引き締めようとするが、妙に気を削がれていた。結局そのまま、ぼんやりと思考の潮に引き摺られていく。
 ―――あの熾烈な戦いから3年。
 まさかの蘇りという事態にはさすがにシャカも色々と考えさせられたし、生死の理が歪んでしまったことは遺憾に思うが、今さら何を申し述べたところで仕方のないことである。
 きっと、まだ今生において為すべきことがあるのだと腹を括ったわけなのだが、死によって罪を贖った者にすれば、この蘇りは拷問にも等しいことだったのではないかとシャカは思う。
 結果、新たに複雑な心理を生むこととなってはいないのだろうか。光差さぬ闇の底のように昏く虚ろで、狂気めいた眼差しが、そこに再び宿ることはないのだろうかとシャカは密かに危惧したけれども、幸いなことに割合と平穏に聖域の月日は流れていたのだった。


作品名:Quantum 作家名:千珠