Quantum
シャカは冷たい水に曝されながら眠るように幾時間も瞑想に耽っていた。肌を刺激していた水滴の感覚すらない。水と一体化した瞬間に肉体に閉じ込められていた魂が開放され、自由に羽ばたいていく。肉の重みを捨てた軽やかな精神は空の高みへと、そして地球を覆う大気から放出され静寂の闇と瞬く星の光に心奪われて、宇宙の壮大さを感じ――――。
「…………あ。」
ぱしゃんと水を跳ね返すように急に体を動かしたものだから、一瞬だけシャカは立ち眩んだ。
「しまった……聖域に行かねば」
すっかりいつもの調子で夢中になってしまい、時間の概念を失していた。身支度を整える時間も惜しいとシャカは水浸しの薄布をさっと一枚腰に巻きつけただけの姿で急ぎ聖域へと向かった。いつものように自宮を目指してトンと軽やかに瞬間移動したまではよかったのだが。そのあとシャカにしては珍しく動揺するような事態に陥ろうとはこの時、露とも思わなかった。
「―――まったく。以前から人外、規格外だとは思っていたけれど、今回ばかりはほとほと呆れるばかり!」
チャップーーン……。
「ふむ、良い湯だ。ムウ、きみもどうかね?」
「シャカ?」
「……いや、冗談だ」
誤魔化しはあえなく失敗。シャカはぷくぷくと泡を吐きながら、湯に潜る。なぜ湯浴み中なのかといえば―――先刻、水浸しのみすぼらしい姿でシャカは確かに自宮を目指したはずだったのだが。
なぜだか勢い余って処女宮を飛び越してしまい、着地したのは教皇の間であった。ちょうど打ち合わせなどをしていたのだろう。多数の者がその場にいたのだった。それこそ、老若男女問わずに。そんなところに全身ずぶ濡れで腰巻だけの不審者丸出し、いや変質者のような……むしろ変質者でしかない姿で飛び込めば、阿鼻叫喚といった状況に陥ったのは無理からぬことだろう。
シャカ自身、しばらく状況把握に時間がかかり、茫然と立ち竦んでいたのだが、ちょうどその場に居合わせたムウが一瞬でシャカだと察知し、言うよりも早く、不躾にもシャカを俵抱きにして、電光石火、素晴らしく広々としたこの浴場に放り込んだのだった。
贅を尽くした造形は芸術的であるがシャカにすれば自然に流れる水の打たせのほうが癒されるなと呑気に考えながら、さきほどの失敗の原因を考えていた。
「―――なぜ……教皇宮に着いてしまったのか」
「いや、それ以前の問題でしょ?」
合点がいかないまま、さしものシャカも僅かに顔を引き攣らせて自分自身に問いかければ、すかさずムウのツッコミが入るが馬耳東風である。
「おかしい……道標は……ふむ、合っているな……」
冥界で迷子――いや、探索行為はしたことがあるが、最も通い慣れた聖域でこのようなミスなどありえなかったのだ。確認してみるが、いつもの移動空間でポイントとしている場所はやはりいつも通りだった。
うーん…とひとつ唸り、答えを導き出そうとするが、やはり納得がいかないシャカに向かって、柱の裏側で控えていたムウが声をかけてきた。
「先日、結構な危機具合だったと話したでしょう、シャカ。つまりはこういう厄介ごとがいまだに残っているというわけ」
しれっとムウは答えた。ならば、事前に一言あってしかるべきだろうとシャカは思ったのだが。それにしても聖域入りする際には邪気は感じられなかったと疑問に感じたことを尋ねた。
「空間を捻じ曲げたのは敵ではあるまい。あれは教皇の仕業かね?」
「いいや、シオンではない。あれは――サガがやったんだけどね」
「ほう。サガかね……なるほど。だが彼ならば元にも戻せるだろうに」
サガの実力はシャカも認めている。特に次元空間といったものはサガにすれば、お手の物であろうと。
「それが、少々難儀なようで。サガも試みてはいたようだけど、敵の置き土産とでもいうんでしょうね。どうやら手を加えて空間を捩じらせたようで。起点がわかれば元には戻せるみたいだけど、その起点が上手く隠されて、さっぱりわからないみたい。まぁ、それはさておき―――シャカ、先程のあれは何?幸い、あまりにも無様な出で立ちのおかげで他の者にはきみの正体がばれずにすんだけれども。聖域入りの際にはきちんとするようにって散々、口酸っぱく言っていたはず。ああ、本当に……同僚として私が情けない。ま、あとで会合が終わってから、シオンが改めてゆっくりと話があるから」
「それはつまり―――」
「覚悟なさい」
「うっ……」
ザブンと湯に身を沈めながら、もう一度インドに帰ろうかな……などと不遜な考えにシャカはとりつかれた。