Quantum
「それから、もうひとつ。動き回るにはヴェールだけでは心許ない。おまえの正体も隠しておかねばならぬからな、これをつけておくがよい」
もう一つシオン教皇の手から渡されたのは目元を覆う仮面。美しくも怪しいヴェネチアンマスクを模したようなものだった。確かに応戦の際にヴェールが取れ、素顔を晒せば厭でもシャカだとバレる。コクと頷きシャカは受け取った。
「それはおまえの意志なくば外れることはないから存分に動き回ってかまわぬ。おまえは強い。だが、今回は勝手が違う。きっとおまえも苦心するであろうが、その中で十二宮を守護する者たちを見定めることは決して悪いことばかりではあるまい」
どこか労わるような眼差しのシオン。力量を見誤ればこちらがダメージ大といったところかとシャカは神妙に頷く。
「はい」
「命まではとられぬ算段―――おまえ自身がかけた術を解かねば、わしは元には戻ることができず、いずれ死んでしまう……だから殺さず、生け捕るようにという脚本。アテナも女優としてご参加くださるから大丈夫だとは思うが。それでも不測の事態が起きぬとは言い切れぬ。わしはおまえが戻るまで生ける屍として何も手助けはできぬ。シャカよ、重々気を付けるがよい」
「それは云われるまでもなく」
なにを今更危惧することなどあるのだろうかとシャカは訝しむが、教皇は憂いた表情でしばらくシャカを静かに眺めた。
「特に……いや。皆全力で挑んでくるだろうからな。おまえを連れて戻った者が聖域を統べるに値する人物であることを願いながら、わしは狸寝入りに勤しませてもらうぞ」
憂いを払うように豪快に笑いたてた教皇に今更ながら理不尽な気がしないでもないシャカは複雑そうに薄く笑みを浮かべるに留まった。
「それはそうと。実際、お眠りになる方法は教皇ご自身でどうにかなさるのでしょうが、捕縛された私が教皇を目覚めさせないといけないのですが、どういった方法をとればよろしいので?ガツンと一発殴るとか」
「……おぬし、今、本気で云っただろう?」
「ええ、真面目に」
「む……おまえがそのつもりならわかった。古来より決まっておる方法に決定だ」
ツーンと拗ねたフリをする齢240オーバーが可愛いとは思えないシャカはうっすら半目に開眼する。何やら厭な予感しかしない。
「古来よりの方法……とは?」
「決まっておろう。接吻じゃ、接吻!白雪姫も眠り姫もシンデレラ…は違うか。とにかく皆、王子様のキッスで目覚めておろうが?」
「キッスって―――誰が、姫で……誰が、王子……なんです?」
念のため聞いておく。曼荼羅模様さえ周囲に浮かばせながら、ギチギチとシャカは奥歯を噛み締めた。
「わしが姫で、おぬしが王子。イッツ・ビューティホー・ワールドじゃ!」
「……もげろ。もげてしまえ、ハッキリ、ポッキリと」
何がイッツ・ビューティホー・ワールドだ。寝言は死んでから云えと不穏な気配を纏いつつ、少々無礼かつ野卑な呪詛を放ちながら、これは本気で捕まるわけにはいかないと決意を新たにするシャカであった。
ふざけた教皇の提案はしっかりと訂正させたのち、さて、いよいよ……となったのだが、シャカは一度インドへと戻ることとなった。いわゆるアリバイ作りみたいなものだ。これといった用事もなかった(というより諸々の雑用は後回しにした)ので、シオンから渡された各黄金聖闘士たちの攻略本(?)に目を通すことを中心の日々を送った。
そこそこ分厚い本は3冊。
あまりシャカには関係のない聖衣の成り立ちや成分表というか、構造のようなものが書かれていた1冊目を読み終え、ざっくりと頭に入れた。今は2冊目の後半に突入している。主に聖衣の弱点について記されていた。本来、こんな重要な極秘事項はそれこそ修復師としての役目を果たすシオンやムウ、そして次代の担い手であろう貴鬼ぐらいしか手にすることのできないような貴重な本だろう。今回、偶々手にすることができたシャカは僥倖といえる。敵からすれば喉から手を出し、涎タラタラなのだろうと思うと、自然シャカの顔もしまりが緩くなる。とはいっても涎は垂らさないが。
「ほ〜う……なるほど……これはこれは……」
面白いことに聖衣にはそれぞれに秘孔のようなものがあって、そこを突くことにより動きを鈍めたり、場合によっては聖衣の機能が停止するようだ。ミロのスカーレットニードルのようだな、と笑む。もっとも、ミロの場合は対「人」に向けてのものであるのだろう。
「ふむ……そういうことか」
邸の外から雨の匂いが入り込んでくる。いつの間にか雨が降り出していたようだ。没頭するあまり気付かなかったシャカは一度パタンと本を閉じて窓を閉めてから、もう一度本へと意識を戻す。
一般的な聖闘士、黄金聖闘士でさえ知ることのない知識。修復師一族であるシオンやムウ、貴鬼しか得ることのない知識を得ることができたシャカは純粋に喜び、興奮を覚える。聖衣によって随分と差があるなと変なところで感心しながら。
3冊目の最後、余白のような部分にはシオンなりの各黄金聖闘士の性格や行動パターンや傾向などが簡単に纏められていた。シャカが認識する人となりとはまた違った印象をシオンは抱いているのだということを知ることもできた。各人の弱点をうまくつきつつ、事に当たれとの助言には従うことにしようとシャカは思うが、シャカ自身の情報は当然ながら省かれていたので、シオンは一体どのようにシャカを認識しているのか少々気になりもしたが気にしたところで仕方のないことでもあったので頭を切り替えた。
「さて、と」
ごちゃごちゃとした衣装や装飾品はいつでも取り出し可能な異空間に収納していたので、これでいつでも変装できるだろうと準備万端整えた。タイミングは教皇の好きな時にということにしてあったので、結局、シャカがインドに戻ってから五日ほど経過してからアテナによる緊急招集がかかったのだった。