冒険の書をあなたに
夕食の準備時間を考えれば密度の濃い触れ合いはできそうもない────そう考えてルヴァは高ぶる気持ちを落ち着かせるために、トランクに入れられていた本を早速読み始めた。
本はこの世界の古代魔法や禁呪に関する研究結果をまとめた書物だった。マーリンあたりが好んで読みそうな内容だが考察も含めて大変面白く、没頭し始めてすぐに事件は起こった。
突然二階から荒々しい物音がして、咄嗟に理力の杖を掴んで階段を駆け下りると、そこには片手に戦斧を持った大柄な男──何故か裸にビキニパンツ一丁で覆面姿のいわゆる変質者──が、着替えたばかりのアンジェリークの腕を掴んでいた。
アンジェリークは悲鳴を上げることもなく、毅然と大男を睨みつけている。
「ア……アンジェリーク!? ちょっとあなた、妻に何の用ですか!」
大男は無言のままルヴァをちらりと一瞥しただけで、そのまま彼女を何処かへ連れ去ろうとしていた。
「いっ……や!」
腕を引かれたアンジェリークはここで初めて抵抗を試みるも、がっしりと手首を掴まれていて逃げられない。
そのまま二、三発蹴りを入れてみてもびくともしない────咄嗟のときに備えて護身術なども多少は覚えたアンジェリークではあったが、やはり女性の力では敵わなかった。
嫌がって暴れ始めたアンジェリークに苛立ったのか、大男の手が彼女の白い頬を容赦なく張り飛ばした。
ばしんと重たい音が響いた瞬間、びゅうと風が鳴って大男のすぐ脇を白い光の刃が勢い良く通り過ぎ、覆面の裾を切り裂いた────ルヴァが理力の杖を大男へ向けて、そのまなじりに怒りを湛えて立っている。
「もう一度聞きます。私の妻に、何の御用ですか」
刺激しないよう努めて冷静なルヴァの問いかけに、男は何も答えないままずるずるとアンジェリークを引きずり立ち去っていく。
「お待ちなさい!」
「ルヴァ……!」
遂に肩へと担ぎ上げられたアンジェリークがすがるようにルヴァへと手を伸ばし、彼がその手を掴もうとしたとき大男が振り返った。視界にぎらりと光るものが見えたと同時に胸の辺りに焼け付くような痛みが走って、アンジェリークの悲鳴が聞こえた。
「……ルヴァ……っ!? イヤ、離して! ルヴァぁああ!」
遠ざかる彼女の青褪めた顔を見つめながら、後を追おうとして視界がぐらついた。
すぐに助けなくてはと思うのに、ふらついて真っ直ぐに歩けない────不思議に思って痛みの走った胸元に視線を落とすと、服がぱっくりと裂けて真っ赤に染まり始めている。
痛みを堪えて再び理力の杖を構えたものの、暫し考え込んだ後その手を静かに引っ込めた。
これは何かがおかしい────脱力して膝をついたルヴァの頭の中で、にわかに疑問が沸き起こった。
あれだけの体躯の不審者が、幾ら出入りが比較的自由の宿屋とはいえ堂々と侵入してきた上に容易く逃亡に成功している。
あの男はカウンターの横を通ってそのまま悠々と出て行ったのだ。持ち物には目もくれず、アンジェリークだけを連れて。
魔法の絨毯など知る人ぞ知る貴重アイテムだし、吊るしてあるドレスも売ればそれなりになるだろう。予約していたリュカの素性を知っていれば、二人まとめて誘拐して身代金をせしめることも可能だ。
だが誰も止めない。関わらない。怯えていたにしても未だに誰一人として連れであるルヴァに知らせようとすらしてこない────考えるまでもなくこれは異常なことだ。
(この宿に内通者がいる……と見たほうがいいでしょうね。そして狙いは金銭ではなく、人そのもの……)
一旦泳がせてみることにしたが余り時間があるとは言えない。すぐに地図を広げ、改めて周辺の確認をする。
このアルカパの南にはビスタ港、東にはサンタローズにオラクルベリーやラインハット城が、そして北側にはレヌール城という古城がある。
東のサンタローズには隠れ家に最適な洞窟があったが、その分ラインハットが近くなる点を考えると、潜伏する可能性はやや薄い気がする。もし仮に南のビスタ港から別の土地へと逃亡されたら、リュカに頼んで一緒に探して貰わなければならない。できるならそれだけは避けたいところだ。
生きたまま連れ去ったということは、アンジェリークに何がしかの利用価値があるからだ。人質か、生贄か、奴隷として売るか。少なくとも殺すのが目的ならもう既に手にかけているだろう。
ならば男の行き先として考え得るのは攫った人質を受け渡す場所か、拠点が何処かにある筈だ────まずはその場所を突き止めなければならない。