冒険の書をあなたに
出かける前にまずは傷を塞がなくてはと、意識を集中させた。
「癒しの柳絮(りゅうじょ)よ、ここへ────」
小さな光の粒がルヴァの周囲にふわふわと降り注いだ。傷口に光がふんわりと当たって塞がっていく。
癒しの力を持つ精霊ホミレシアは、柳の姿にその身を変えてこの世界に眠っているのだという。柳絮はそんな精霊の力そのままの優しさで風に舞う。
傷口が塞がったところで着替えて一階に下りていき、宿の主人に声をかけた。
「ご主人、先程の大男について少し伺いたいんですが」
じいっと視線を逸らさずに見つめ続けた。逸らせるものならば逸らしてみろ、と言わんばかりの強い視線に主人が狼狽し始めた。
「お、お客様、何か問題でも?」
へらりと引きつった笑みを浮かべた主人に対し、その目をすっと細めた。
「あの人に私の妻が連れて行かれましてね。何故かは分かりませんが、この宿ではあんなあからさまな不審者をだーれも引き止めない。すぐに誰かを呼ぶことさえしない。おかしいと思いませんか」
ふう、と疲れたようにため息をついて顎に手を宛がいわざと主人から視線を外すと、その奥で女将が見覚えのある本を開いている。
(あれは……。なるほど、まだこの辺りでは情報が伝わっていないようですね)
怯えたように何か口ごもる主人を遮り、いつもののんびりとしたペースでにこにこと愛想良く微笑んだ。
「おや、女将さんは光の教団に入信されているんですかー?」
開いていた本をすぐに閉じて女将の視線が彷徨ったのを、そしてその本の下に札束があったことを、ルヴァは見逃さなかった。
「え、ええ……まあ」
女将が曖昧な笑みを浮かべ、どこか媚びるような視線をこちらへ向けてきた。
「あの教団への寄付金は、とっても高額ですよねえ。それを賄えるなんて素晴らしい経営手腕なんですねー」
勿論寄付金の額など知る由もない。だがこういった邪教はがめつく金を集めているケースが多いため、はったりをかましてみせた。
再びじっと主人を見つめると同時に、とん、とん、と指先で机を叩く。穏やかな表情のままで多少イラついたようなそぶりを敢えて見せることで、精神的に揺さぶりをかける。
「それは……その、ははは」
しどろもどろに狼狽している主人へ、更に追い討ちをかけていく。
「……この件について、私からは何も言うつもりはありません。ただね、妻を迎えに行きたいので、彼の行き先を教えて頂けませんか。ご存じないのでしたら、友人であるグランバニアのリュカ王とラインハットのヘンリー王子に応援を頼むことになってしまいますのでねー。……おおごとにしたくないんですよ、分かるでしょう?」
何もかも見抜いている、という意味を込めて一瞬きつく睨みつけた。普段はおっとりと穏やかだがいざとなったら首座の守護聖とも対等に渡り合う彼のこと、それなりに怖かったと見える。主人がひっ、と小さく息を呑んだ。
暫しの沈黙の後で観念した主人が土下座をし、涙声で話し出した。
「レ……レヌール城へ連れて行くと……本当に、本当に申し訳ございません、つい大金に目が眩んで……!」
女将は未だにむっすりと横を向き謝るそぶりすら見せずにいたが、ルヴァは知りたい情報を得たことで既に頭を切り替え、にっこりと微笑んだ。
「レヌール城ですね、ありがとうございます。では少し出てきますから……すみませんが夕食は要りません。でも部屋に戻れるようにはしておいて下さいね、お願いします」
このときのルヴァは口調こそいつも通り丁寧だが有無を言わせない威圧感を放ち、宿屋の主人と女将を恐れさせていた。彼にとって命よりも大切なアンジェリークが連れ去られたことはすぐに許せる類の話ではないのだ。
「か、かしこまりました! お気をつけて!」
「あぁそれと、女将さん」
足を止めて女将へと声をかけた。気まずそうな女将の視線とぶつかった。
「光の教団はね、宗教なんかじゃなくて魔物たちの組織だったと知れ渡って壊滅しているんですよ。ですから大金はもう用意しなくてもいいんです」
部屋からトランクの中にあったアイテム幾つかと杖、魔法の絨毯を持ち出して、ルヴァは大急ぎでここから北西に位置するレヌール城を目指した。
この辺りの地図は先程見ただけでほぼ頭に入っていた。アルカパから一旦西へ向かい、草原を北上すればすぐにレヌール城だ。
林を迂回して川沿いにいくと城へ続く坂道が見つかり、そのまま魔法の絨毯で門の前まで直行出来た。
城の中に目ぼしい明かりは見えない。急いでいるのに、と少し思いつつも辺りに落ちていた木の枝を拾い集め、アンジェリークの折り畳みナイフで木の皮を剥いだ。そして剥いだ木の皮を手で持つ部分にぐるりと巻きつけ、トランクから引っ張り出してきた巾着の紐を抜き取ってひとつに纏めた。巾着の中には薬草が入っていたが、紐がなくても口を折り畳んで懐にしまいこめば問題ない。
「小さき炎よ、集まりなさい──」
メラの呪文で松明に火を点して、大きな扉をくぐり城内へと足を踏み入れた。
(アンジェ……どうか無事でいて下さい……!)