冒険の書をあなたに
ずどーん、と効果音が出そうな勢いでアンジェリークがへこんでいた。
(あ……洗われた……っ。全手動丸洗いされた上に、あ、あんなこと……っ)
わしゃわしゃとアンジェリークの髪を洗う手つきが妙にこなれていると思ったが、昔はよく弟の頭を洗ってあげていたそうだ。
体の隅々まで洗うといえば聞こえはいいが、要は撫でくり倒されて声を抑えるのに苦労していたのだった。
「宿の方に聞かれてたらどうするんですか、もうっ……」
洗うというには浅い触れ方ばかりされ、今も体の芯に疼きを残したままだ────彼の狙い通りに。
「おや、あなたはご自分で『部屋の中ならいい』って仰ってましたよ?」
アンジェリークの髪の水分をぱたぱたとタオルに吸わせつつ、しれっと答えるルヴァ。
「あ、あれはっ、お部屋の中じゃないとだめって言ったんです! ここは浴室でしょ! すぐそこにテラスがあるのにっ」
すぐ隣室からテラスに出られる────つまり、食事の準備で人が通る、ということだ。
「ええと……浴室だって部屋は部屋、じゃないでしょうか。……いたっ、いたたっ」
アンジェリークが涙目でルヴァの頬をつまんで左右に引っ張った。彼女と違い頬に余り肉がないのでさほど伸びはしなかった。
「屁理屈はいいから、早くわたしの着替えを持ってきて下さい!」
その後、上機嫌で着替えたルヴァが部屋からアンジェリークの着替えを手にして浴室へと引き返し、きちんと服を着たところでテラスへと向かった。
卓上には小さなキャンドルが幾つも灯されて、それぞれに淡い光を放つ。
二人が席に着くと、すぐに前菜と水が運ばれてくる。遅い時間だからか女将が少しだけ声を潜めた。
「お酒はお召し上がりになります? 葡萄酒の他にかりん酒、ざくろ酒、エール、地酒の用意がございますが」
ルヴァがちらりとアンジェリークへと視線を流す。
「あ……わたしはお酒はやめておきます。すぐ寝ちゃいそうだから、折角の夜なのになんだか勿体無くて……」
二人きりの時間はもうそれほど残されていない。その事実がアンジェリークの胸を切なく締め付けていた。
女将はそんなアンジェリークにひとつの提案を持ちかける。
「ではお帰りの際にアルカパ産葡萄酒を一本お持ち下さい。私どもの前のオーナー夫妻が大切に育てた古樹の葡萄で作られています」
そういえば、宿に葡萄の棚があったと言っていた────とアンジェリークが目を見開いた。
「えっ、ダンカンさんが育ててたんですか?」
「ええ、それ以前からあったのをそのまま引き継いだらしくて……私どもも貴重なアルカパの財産として大切にしています」
山奥の村でパン生地をこねながら交わしたたわいもないお喋りの中で、このアルカパの葡萄の棚のこと、亡き母や父ダンカンがいて、パパスがいて、リュカがいて、みんなの笑顔がそこにあったこと────そしてその記憶が今も色褪せずに心にあるのだと、彼女は淡い空色の瞳を潤ませて懐かしそうに語っていた。
少し寂しげだったアンジェリークの瞳が柔らかく弧を描いたのを見て、ルヴァもまた笑みを浮かべる。
「ビアンカさんが聞いたらきっと喜びますね。じゃあ一本頂いて帰りましょうね、アンジェ。ありがとうございます」
「かしこまりました。それではゆっくりとお寛ぎ下さい」
静かに下がっていく女将を目で追って、ルヴァが口を開いた。
「なんだか気を遣わせてしまってるようで申し訳なくなりますが……頂きましょうか」