冒険の書をあなたに
背後からかたんと小さな物音が聞こえた。
どきりと心臓が跳ねて、全身の神経を研ぎ澄ませてそっと衝立の方角へと視線を滑らせ、声を低めた。
「……どなたですか」
すると衝立の向こうから見慣れた頭がひょっこり現れた────アンジェリークだ。
手で顔を隠してこちらを見ないようにしながら、カニ歩きで衝立の隙間からこちらへと向かってくる。
「ア、アンジェ!? な、どっ、どうしたんです」
「ご、ごめんなさい。着替え忘れていったから、こ、ここに置いていきますね……」
手に持っていたルヴァの着替えをばふっと音を立てて籠へと落としていく。目をきつく閉じたまま落としたので籠から半分はみ出ていた。
彼女のそういう姿を見てしまうと、沸々と悪戯心が湧き上がって来るのは何故なのだろう────ルヴァは再びカニ歩きで去っていこうとするアンジェリークを呼び止めた。
「ああ待って下さい、いいところに来てくれましたね。お願いがあるんですよー」
「へっ? な、何ですか」
林檎のような色の頬と上擦った声が可愛らしい。
「出血が多かったせいかどうも体に力が入らなくて……ちょっと辛いので頭を洗って貰えたら助かるんですけど、お願いしてもいいですか」
怪我を強調すれば優しい彼女は放っておけないことを、ルヴァはよく熟知していた。
案の定、赤らんでいた頬にさっと緊張が走った。
「だ、大丈夫? そうよね、あんなにいっぱい怪我したんだもの……いいわ、洗ってあげる。ごめんなさい、わたしったら気がつかなくて……」
既に照れ臭さよりも心配が上回り、看病モードのスイッチが入ったアンジェリーク。
浴槽の淵に腕を乗せ楽な姿勢を取るとアンジェリークの細い指先が丁寧にルヴァの髪を洗い始める。
自分で洗うのとは全く違う優しい感覚に癒され、とろとろと眠気が襲ってくる。その心地よい時間は瞬く間に過ぎ、アンジェリークの指が離れた。
「はい、おしまーい。流すのは自分でできます?」
「ええ、ありがとうアンジェ。助かりました」
コックを捻り泡を流していく。顔に張り付く濡れた前髪を後ろへかき上げたとき、こちらを見つめるアンジェリークと視線がぶつかった。
連れ去られたときには青褪めて震えていた彼女の唇が、今は温かな桜色を灯している。
「あなたが無事で本当に良かったですよ」
魔法の絨毯の速度がとても遅く感じたほど気が急いて、とにかく間に合って欲しいと祈り続けていた。
合間に襲ってきた恐ろしい想像に戦慄したのを思い出して、きゅっと唇を結び愛おしい翠の瞳を見つめた。
「きっと助けに来てくれるって思ってたから……でも、怖かったわ」
アンジェリークの手が伸びて、斬られた胸の辺りに恐々と触れた。
「……もし、あなたがあのまま助からなくて、もう二度と逢えなかったらって考えたら、とても怖かった……」
そうなったら自害する気でいた件は、彼がもれなく激怒しそうなので言わずにおいた。
それから二人とも言葉なく見つめ合ったまま、逸らすこともできない────先に動いたのはルヴァだった。
「……あなたも一緒にどうですか」
ぐいと腕を引いた。
華奢な体はいとも容易くルヴァの腕に抱きすくめられて、くるくるとした金の巻き毛もサンドレスも、白い素肌も────瞬く間に濡れそぼる。
雨のように打ち付ける温かな水音の中でアンジェリークの艶やかな頬を愛おしげに撫でて、その柔らかい唇を捉えた。次第に深くなる口付けの合間、ルヴァの手がサンドレスの細い肩紐を解き、熱い息が彼女の耳へかかった。
「お返しに私もあなたを洗いますからね……」