冒険の書をあなたに
ルヴァが次に目を覚ましたとき、周辺の景色は一変していた。
ぎゃあぎゃあと鳥だか猿だかの鳴き声が響き渡る、鬱蒼とした森の中で横たわっていた。
密集した木々はうっそりと生い茂り、蔦が枝から垂れ下がっている。
常春の聖地に体が慣れ過ぎているせいか、このじめじめと纏わりつくような湿度を含む空気がなかなかに堪える。
(ここは……?)
身を起こし恐る恐る見回してみても、つい先刻まで一緒にいたアンジェリークの姿がどこにもない。
ルヴァは一気に漠然とした不安に襲われて、立ち上がって更に注意深く辺りを見回した。
やがて近くの斜面の下からガサガサと音がして、ルヴァは身の竦む思いでそちらを注視し、それから大きく安堵の息をついた。
音の正体はアンジェリークその人で、当の本人はいつもの笑みを浮かべてやってきた。
「あっ、ルヴァ! 良かったー、気がついたのね」
アンジェリークはドレスの裾に枯れ葉やら小枝を巻き込みながら、うんしょ、と斜面を登りルヴァの元へと歩み寄ってくる。
「アンジェ……。驚きましたよ、気付いたらどこにもあなたがいないんですから」
よく見ればうっすらとけもの道になっているが、それにしても結構な傾斜だ。踏み外せば怪我だけでは済まないかも知れないというのに、その格好でよく動き回ったものだと感心しつつルヴァがアンジェリークの手を取り、斜面の上へと引っ張り上げながらアンジェリークの片手に目を留めた。
「おや、それは?」
「あ、これね、下の岩場にきれいな湧き水が出てたんで汲んできたんです。ルヴァったら起こしても全然起きないんですもの」
ツワブキかその近縁種とみられる艶のある葉をカップ状に丸め、その中に水が入っていた。
「私はもう飲んだから、これはルヴァの分。ここはちょっと暑いようだし水分摂っておかなきゃ、ねっ?」
ここが何処かすら分からない状況の中で、アンジェリークの朗らかさに救われた気分になるルヴァ。
彼女が女王候補の頃、よく知らない場所で生水を飲んだり知らない野草を採ってはいけない、目には見えないが毒があったり、寄生虫がいたりするからと幾度も諭してきたルヴァだったが、この場合はやむを得ないだろう。
にっこりと微笑むアンジェリークに促され、ルヴァは水を飲み干した。
冷たい湧き水が喉を潤し、多少朦朧としていた意識もはっきりと目覚めてきて、ふうと息を吐く。
「ありがとう、アンジェ。怪我はないですよね?」
頷いたアンジェリークの手を掴んで抱き寄せる。そのまま素早く唇を奪った。
「あなたが無事で何よりです。……でも今後は、できるだけ私の側から離れないで下さい」
なお湧き上がる不安をかき消すようにぎゅうと強く抱き締めると、最早どちらのものか知れない胸の高鳴りが聞こえた。
「まずはここが何処なのか、手掛かりを探しましょう」
周囲には深い森があるばかりで目ぼしい建物もない。少し山の上のほうへと行ってみようかと考えていた矢先、アンジェリークが口を開いた。
「あのね、その前にひとつ気になってるの……サクリアを感じないんです。ルヴァはどう?」
アンジェリークに言われて初めて、確かに二人のサクリアを感じられないことに気付く。
「あー、本当ですねぇ。……私にも読めない言語の本、なのに神鳥の紋章が入っていた。そして本から放たれた強い光……」
アンジェリークの金の髪を優しく指で梳きながら、ルヴァはある仮説を立てていた。
「根拠はないので、もしかしたらの話なんですけど。私たちは、あの本の中の世界へと呼ばれてしまったのではないかと思うんですよ」
うっとりとルヴァの胸に頬を寄せていたアンジェリークが顔を上げ、彼の顔を見つめた。
「わたしも、そんな気がしています。ここはなぜか懐かしいような気がして……それに」
アンジェリークはポケットをごそごそと探り、何かを掴んで引っ張り出した。
「さっきそこで見つけたの。これ、ドングリよね」
手の中には少し艶の褪せたドングリが五個ほど。
「フキの葉っぱにドングリ。私たちの宇宙の植生と似通っていますねえ、確かに」
ルヴァは改めてもう一度ぐるりと周囲を眺めた。
「どうやら、この辺りは照葉樹林帯のようですが……知っている植生と、見たこともない植生とが混じっていますね。とにかくここにいても埒があきませんから、少し移動しましょうか。視界が開けた場所へ行けば何か建物などが見えるかも知れません」
「わかったわ。じゃあ、ドレスを移動用にしなくちゃね」
「……移動用? わ、わわっ!」
言うが早いか、アンジェリークはドレスの裾をばさりとめくり上げた。
白い太腿があらわになり、ルヴァの顔が一気に赤らむ。
裸はとうに見知っているというのに、その妙に艶めかしい姿に顔が火照ってしまう。
「ここにね、隠しボタンが縫い付けてあるの。裾のレースが取り外せるのよ」
薄桃色の繊細なレースを外し、表地を内側に巻き込んでループに引っ掛けた。
ドレスのボリュームがぐっと減り、丈を短くしたことで足首周りもすっきりとして、多少は歩きやすい格好になっていた。
皇帝一派の事件のあと、アンジェリークはドレスに隠しボタンとループをつけて軽装にできるように改良してあった。
「アンジェ、それは何ですか? そのー、ふ、太腿の」
アンジェリークは太腿のところにレッグホルスターと呼ばれるベルトをつけていて、そのベルトに通された小さなポーチから薄い折り畳みナイフと旅行用の折り畳み靴を取り出した。
「こういうこともあるかなーって思って、一応ね。ドレスの下だとこういうの隠せるし」
折り畳みナイフは護身用にすらならない陳腐なものではあったが、ロープを切るくらいはできる。少しは走れるよう、秘密裏にドレスを改造してかかとのない靴も用意していたのだ。
靴を履き替えているのをぽかんと眺めているルヴァに、アンジェリークはナイフを手渡した──もしもの際には彼ならば何とかしてくれる、という信頼を込めて。
「このナイフはルヴァが持っていてね。ねえルヴァ、あなたのターバンお借りしてもいいかしら。ちょっと汚しちゃうかもしれないんだけど……」
「ああ、そういえば手に持ったままでしたねー、構いませんよ。どうぞ」
手渡されたターバンをさっと広げ、脱いだヒール靴を包んで小さくまとめられたレースを包む。端をねじってきゅっと結び、肩に担いだ。
「はい、準備完了よ。行きましょう!」
にこにこと春の陽射しを思わせる笑みを浮かべてアンジェリークは立ち上がった。ルヴァはその小さな手をしっかりと繋ぎ、歩き出した。