冒険の書をあなたに
「アンジェ! ……アンジェリーク、目を覚ましなさい! どうしたんですか!」
切羽詰った様子の愛しい人の声に、少し遅れてはっとそちらに意識を向けた。
強く両肩を掴むルヴァの手が僅かに震えていた。
「あ……ル、ヴァ……わたし……?」
戸惑い揺れるアンジェリークのまなざしに、ルヴァはひとまず安堵の表情を浮かべて長く息を吐いた。
「……驚きましたよー。突然固まってしまうんですから……大丈夫ですかー?」
本当は今すぐに声を上げて泣き出してしまいたかった。
それ程にパパスの最期の叫びが、耳の奥にこびりついて離れない。
「ええ……大丈夫。水鏡で、色々……見えて」
ルヴァの横で眉を顰めてこちらを見つめるリュカを、棘に掻き毟られるような思いで見つめ返した。
この青年は、一体どれだけの傷を抱えて気丈に生きてきたのだろう。
────過ぎてしまった時間を戻すことはできませんが、ぼくはもう家族と離れ離れになりたくないし、誰も失いたくない。
ほんの数日前に聞いた、リュカの言葉が蘇る。
安易に同情するべきではないとアンジェリークにも分かってはいた。分かってはいたが、それでも迸るように言葉が口をついて溢れ出てしまった。
「……リュカさん」
堪え難い悲しみが胸に詰まり、思わずアンジェリークの声が掠れた。
「はい」
目を逸らさずにいよう、とアンジェリークはぐっと喉の痛みを堪えてリュカを見つめる。
ぽろぽろと零れ落ちる涙はどうしても止められなかった。
「パパスさん、とっても素敵な方ね。強くて、優しくて、あなたをとっても愛してる」
パパスの名を聞いた途端にリュカの顔がくしゃりと歪み、あっという間に瞳が潤んだ。
「……ええ。自慢の……自慢の、父です」
過去形で言わなかったアンジェリークと、同じく過去形で言えない様子のリュカ。
その言葉尻と二人の様子でルヴァはうっすらと事情が飲み込めてきた。
幾度拭っても溢れ出る涙を止められないまま、アンジェリークは言葉を探した。
「良く似ているわ。笑った顔なんかそっくり……髪も目の色も、お父様譲りかしら」
ふっと泣き笑いの顔を見せるリュカ。
「……どうやらあなたは、本当に天使らしい」
ルヴァがハンカチでアンジェリークの頬を拭いながら、そっと訊ねる。
「水鏡で、リュカ殿の過去を?」
いまだ震えている手をさり気なく隠しつつ、アンジェリークはルヴァのほうを見た。
「たぶん……。紫色のターバンに、緑の服の小さな子……。小さな猫みたいな子も一緒に、ヘンリー王子を助けるんだって、古い建物の中を走ってた……」
リュカは目元の涙を親指で拭い、僅かに口元を綻ばせる。
それは一応笑みの形を保ってはいたが、痛々しさを漂わせる類の笑みだ。
「それなら……間違いなくぼくとプックルですね。その場所を見たってことは……父の、最期も?」
アンジェリークはこくりと首を縦に振るのが精一杯だった。
静かに微笑むリュカの心から、今にも号哭の声が聞こえるようで。
「すみませんが、ビアンカには黙っていて下さい。いつか……言える日が来たら、ぼくから話したいんで」
ルヴァがリュカの肩をとんと優しく叩いて、小さく頷いた。
「ありがとう……父のこと、褒めて下さって嬉しかった」
目尻を赤く滲ませて、リュカは微笑んだ。理不尽への悲哀や怒り、苦しみなどを全て受け止めて、ひとつひとつ乗り越えてきた強さをその目に湛えて。
「本当のことよ、とても素晴らしい方だと思うわ。……あのヘンリー王子は、今どんな大人になっているのかしらね」
言葉を明るくしてもなお、悲しくやるせない思いがずしりと心に圧し掛かっていた。
彼に伝えたかったことは色々あった筈なのに、そのどれもこれもが喉につかえて置き去りのままだ。
「明日会えば分かりますよ。ってことで……もちろん来て頂けますよね、お二方」
リュカの微笑みに釣られる形で二人揃って頷いてしまい、そのままリュカと別れて部屋に引き上げた。