冒険の書をあなたに
「あ、無事に飛び降りたみたいね。下まで降りていきましょ」
無事に飛び降りた、という表現はいかがなものかと思う。
ビアンカと子供たちは慣れた様子でぞろぞろと階段を下り始めた。ルヴァも慌てて下りていく。
「皆さんは、リュカ殿のあの崖遊びをご存知なんですか?」
遊びというよりは一見自殺行為にしか見えないが、と心で嘆息しつつ訊いてみた。
とことこと先を歩いているポピーがぷうと頬を膨らませて頷く。
「いつもはお父さん一人か、お兄ちゃんと二人か、プックルと一緒です。あんなの何が楽しいのかほんと分からない!」
「……同感です」
エルヘブン入り口まで出ると、リュカがにこにこと満面の笑みで立っていた。
まだアンジェリークを横抱きにしているのが見えて、ルヴァのこめかみがぴくりと動く。
そんなルヴァの姿を捉えた瞬間にさっと青褪めたアンジェリークがじたばたと藻掻いていた。
「ちょっ……リュカさん、あの、もう降ろして……!」
面白がったリュカがくすくすと笑いながら顔を寄せて囁いた。
「ねえ……このままあなたを攫っちゃったら、ルヴァ殿は追って来ると思います?」
「ちょ、ちょっと、顔近いですってば! からかわないで下さい!」
触れそうなほどの至近距離でじっと見つめられ、すっかり紅潮し切った頬をアンジェリークは両手で隠した。
「いやー可愛いなあ。これはルヴァ殿が手放さないわけだ」
そこへずかずかと大股で芝生を踏み、ルヴァが近付いてきた。
「リュカ殿。そろそろアンジェを返して貰えますか」
普段穏やかな笑みを湛えている彼が、今はにこりとすらしない。
どうやらからかいが過ぎて彼の機嫌を損ねてしまったらしい、とリュカが肩をすくめる。
「はは、長々とすみませんでした。はい、どうぞ」
横抱きのままアンジェリークを渡すと、ルヴァが一度だけ咎めるような厳しい目つきで睨みを利かせてきた。
だが百戦錬磨のリュカ本人には堪える筈もない。怒りや嫉妬や色々な感情に塗れた眼光の鋭さはなかなかのものだとむしろ感心されていた。
ルヴァもまた彼女を降ろす気配がなく、笑みのない目を見上げてアンジェリークが恐る恐る尋ねた。
「あの……ルヴァ、怒ってる……?」
「……………………」
ジロ、とアンジェリークを見下ろす視線はとても冷たかった。
「ご、ごめんなさい」
尖った瞳の冷たさに居たたまれずに降りようと藻掻き、ルヴァの胸をぐいと押す。すると意地でも離さないと言いたげにルヴァの両腕に力がこもった。
はあ、と大きなため息がアンジェリークの頭上を掠めていった。
「あなたって人は……本当に、罪作りな方ですねぇ……」
その感傷的な声色に恐々上目遣いで彼を見上げると、困ったような、何かを訴えるかのような複雑な目つきをしていた。
額にそっと口付けが降りてきて、小さな囁きがアンジェリークの耳に届く。
「とても心配したんですよ、ヤキモチも妬いちゃいました……胃が痛いです」
アンジェリークはそのまま彼の胸元に顔を寄せて、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。
実際のところはわざと大げさに言ってみたものの、アンジェリークのしおらしい姿が愛おしくて、ルヴァはくすりと微笑んで訊ねた。
「それで……崖遊びはいかがでしたか」
今朝方の夜明けのように、ぱあっと翠の瞳が輝いた。
「すっごく楽しかったわ!」
暁の女神はあの危険な遊びがお気に召したらしい、とルヴァががっくりと肩を落とした。
朝の光が強くエルヘブンの鮮やかな青い屋根を照らしていく。
風にふうわりと漂うリラの香りを胸いっぱいに吸い込んで、一行はエルヘブンを後にした。