シュレディンガーの猫
悪いのは全部イギリスさんなのだ。口喧嘩ごときで魔術だか魔法だかを持ち出すのが悪い。しかもそれを失敗するのが悪い。
後で問い詰めてもシラを切り通していたし、「お前が途中で割り込んでくるからだ!」なんて責任転嫁まで始めてたけれど、過去の人物を呼び寄せるようなデタラメで危ない術なんて、失敗に決まっている。
素直じゃないから困る。俺様だから絶対に折れないし。ついでにごんぶと眉毛で紅茶馬鹿で最悪の味覚音痴でガラが悪くて元海賊のイギリスさん、いや、
――イングランドの、ばぁーか!
イギリスさんが右手をひと振り、するとそこには指揮者のタクトに似た魔法の杖が握られている。棒の頂点には、ご丁寧にも黄色い五傍星がくっついている。
うんにゃらむにゃらと呪文を唱えるイギリスさん。呆然と固まっていた私は我に返る。あんぐり口を開けて眺めている場合じゃない。
「なにする気ですかっ!」
とっさに彼との距離を詰めた私に、無防備になっていたイギリスさんが呪文の詠唱を中断させた。準備もその呪文も不完全なままに発動する、魔法。
「えっ、なに?なにっ?!」
「うわっ馬鹿セーシェル!」
その一瞬に、室内は目を開けていられないほどまぶしい光に包まれた。
虚空に生まれた光がまた虚へと還る。なにか大きな力がはじけて、身体が後ろへ吹き飛ばされる寸前にイギリスさんがかばってくれたらしく。彼に覆いかぶさられるようにして、私は尻もちをついていた。
「しっかりしてイギリスさん!」
絞り出すようなうめき声を上げて緩慢に身じろぐイギリスさん。頭をぶつけたのか。
どさっ ずるり
固いものを床に落としたような音。そして分厚い布を引きずるような衣擦れに、びくりと身体がこわばった。だってこの部屋には私たちしかいないはずなのだから。おそるおそる、音のする方を振り返る。
「だ、誰かいるの?」
誰何の声に応えはない。ごくりと息をのむ。
ぞろりとした布地を飾る、たくさんの装飾。時代錯誤な服をまとったひとが、うつぶせに倒れている。現代ではお芝居の舞台上でしか見られないような重々しいローブにシルクのシャツ。身分の高さは、いやがおうでも分かる。
それよりなにより、ふせているそのひとのくすんだ金の髪。見覚えがありすぎるその色に、ぞくりと悪寒が走った。
「そんな……まさか、嘘でしょ?!」
「ぐふっ」
思わず腕の中のひとを放り出してしまうほどに、私は驚いていた。
ごぃん、という鈍い音がして、イギリスさんは今度こそぴくりとも動かなくなった。――が、私はそれどころではなかった。私たち《国》が少々頭をぶつけた程度で死にやしないから、イギリスさんはさておくとして。
私が倒れているひとにおっかなびっくり近寄っていくと、彼は頭をさすりながらゆっくりと身を起こした。今よりも幾分幼い顔立ち、ぶっとい眉に、宝石みたいな翡翠色の瞳。その翡翠の片方を隠している、黒い眼帯。
「イ……、」イギリスさん、といつものように呼ぼうとして、ためらった。彼はむしろ――
「大英帝国、さん?」
「……誰だ、お前は」
じろりと睥睨する目。
遙か高みから見下ろすような物言いに、寝起きのようにかすれた声もわずかに幼くて、しかしどこか妙な色気があった。
「あ……」
「ん、これか」
私の視線をたどって、彼は眼帯に手をかけ、なでる。
「先の会戦でやり合った時に、目に返り血が入っちまってな」と口の端をゆがめる。それは自分の戦歴を誇示しているようにも、へまを自嘲しているようにも見えた。
彼は私の知らないイギリスさん。
そして、私を知らない、過去のひと。
七つの海を又にかけた大国、大英帝国そのひとだった。
「おい、小娘」
「……まさか私のことですか」
「他に誰がいるんだ?」
「私しかいませんね」
外見の背格好にそう大差はないはずなのに、私を小娘と呼ばしめた男。日常的に自分より格下の者をあごで遣い慣れている口調そのものだった。むっとしながらも、私の背筋は伸びてしまうのが悲しき習性かな。
「ここはどこだ。俺はいつの間にこんな王宮みたいなところに連れてこられたんだ」
「ええと」
本当のことを伝えて、相手は信じるだろうか。わずかな逡巡。嘘をついてもよけいにこじれるだけだ。
「未来、です。あなたからすればずーっとずーっと先の。イギリスさん……いえ、たぶん未来のあなたのせいで、こんなことに」
「ほう」
「信じるんですか?」
「嘘なのかよ?」
「い、いいえ!」
魔法のせいなら仕方ねぇ、と彼はあっさり納得した様子でうなずく。こちらとしては説明の手間が省けてありがたいけれど、本当にこんなのでいいのだろうか。――彼がいいと言うのだから、いいのだろう。
自分のおかれている状況を把握できたら周囲を見渡す余裕ができたのだろう。じいっとこちらを見つめていた彼は、すっと目を細めた。
「お前は、《国》か」
座り込んだまま身体を固くして、私はこくりとうなずく。「そうか」とつぶやき、彼はまた私を子細にながめる。今度は上から下まで、ぶしつけに。私はこの視線に覚えがある。彼は検分しているのだ。私がいかほどに《価値》があるのかを。
知らず、後ずさっていた。
「逃げんなよ」
「いやいやははは!逃げるだなんてそんな!」――隙を見て逃げるつもりだった。
「腰が引けてるぞ」
私が立ち上がって体勢を整えるよりも早く、のびてきた手に腕をつかまれる。
「やっ!」
身をよじったら、ふたつくくりの髪がばらばらと肩からこぼれ落ちた。
彼は指先で私の髪をすくって、からめ取る。するりと逃げていくそれをまた追いかけて。頭が、髪の根本がこそばゆい。
「きれいだな」
笑みを浮かべてささやく。顔が近い。吐息が感じられるほどに。声が、出せない。
触られた。《インド洋の真珠》と誰かが謳った私を。黒真珠みたいだと讃えてくれたこの髪を。嬉しいはずがない。大英帝国、世界の覇者だった彼に褒められた――それはすなわち、彼に目をつけられた、ということ。
身体じゅうの血が逆流する。とっさに、バネみたいに跳ね返った右手で彼を振り払っていた。
「はなしてっ!」
「っ、」
ぱしん。乾いた音。
右手で、彼の頬をぶっていた。
彼もよもや私が抵抗してくるとは思ってもみなかったことだろう。したたかにぶたれた頬に手を当て、ほんのわずか、目を丸くして。口の中を切ったのだろう、唇の端に血がにじんでいた。
――と、彼の様子を見ていられたのはそこまでだった。
「いてぇな」
視界が大転回、肩をつかまれ床に引き倒されていた。したたかに背中をぶつけて、息が詰まる。
「え、……げほっ!」
「威勢がいいのは結構だが、……お前、よく言われないか?考えなし、って」
「うーっ!」
軽挙妄動を慎むべし。頭で分かっているからといって、そうそう実際に行動に移せるもんか。それができるなら、私はとうに世界のヒーロー(いやヒロインか?)になっている。
うなる私がそんなに可笑しいのか、彼はくつろいだ猫みたいに目を細めてくつくつと笑っている。力をこめているようには全然見えないというのに、床にぬい止められた肩はぴくりとも動かない。
「は、はなっ、はなせぇーっ!」
後で問い詰めてもシラを切り通していたし、「お前が途中で割り込んでくるからだ!」なんて責任転嫁まで始めてたけれど、過去の人物を呼び寄せるようなデタラメで危ない術なんて、失敗に決まっている。
素直じゃないから困る。俺様だから絶対に折れないし。ついでにごんぶと眉毛で紅茶馬鹿で最悪の味覚音痴でガラが悪くて元海賊のイギリスさん、いや、
――イングランドの、ばぁーか!
イギリスさんが右手をひと振り、するとそこには指揮者のタクトに似た魔法の杖が握られている。棒の頂点には、ご丁寧にも黄色い五傍星がくっついている。
うんにゃらむにゃらと呪文を唱えるイギリスさん。呆然と固まっていた私は我に返る。あんぐり口を開けて眺めている場合じゃない。
「なにする気ですかっ!」
とっさに彼との距離を詰めた私に、無防備になっていたイギリスさんが呪文の詠唱を中断させた。準備もその呪文も不完全なままに発動する、魔法。
「えっ、なに?なにっ?!」
「うわっ馬鹿セーシェル!」
その一瞬に、室内は目を開けていられないほどまぶしい光に包まれた。
虚空に生まれた光がまた虚へと還る。なにか大きな力がはじけて、身体が後ろへ吹き飛ばされる寸前にイギリスさんがかばってくれたらしく。彼に覆いかぶさられるようにして、私は尻もちをついていた。
「しっかりしてイギリスさん!」
絞り出すようなうめき声を上げて緩慢に身じろぐイギリスさん。頭をぶつけたのか。
どさっ ずるり
固いものを床に落としたような音。そして分厚い布を引きずるような衣擦れに、びくりと身体がこわばった。だってこの部屋には私たちしかいないはずなのだから。おそるおそる、音のする方を振り返る。
「だ、誰かいるの?」
誰何の声に応えはない。ごくりと息をのむ。
ぞろりとした布地を飾る、たくさんの装飾。時代錯誤な服をまとったひとが、うつぶせに倒れている。現代ではお芝居の舞台上でしか見られないような重々しいローブにシルクのシャツ。身分の高さは、いやがおうでも分かる。
それよりなにより、ふせているそのひとのくすんだ金の髪。見覚えがありすぎるその色に、ぞくりと悪寒が走った。
「そんな……まさか、嘘でしょ?!」
「ぐふっ」
思わず腕の中のひとを放り出してしまうほどに、私は驚いていた。
ごぃん、という鈍い音がして、イギリスさんは今度こそぴくりとも動かなくなった。――が、私はそれどころではなかった。私たち《国》が少々頭をぶつけた程度で死にやしないから、イギリスさんはさておくとして。
私が倒れているひとにおっかなびっくり近寄っていくと、彼は頭をさすりながらゆっくりと身を起こした。今よりも幾分幼い顔立ち、ぶっとい眉に、宝石みたいな翡翠色の瞳。その翡翠の片方を隠している、黒い眼帯。
「イ……、」イギリスさん、といつものように呼ぼうとして、ためらった。彼はむしろ――
「大英帝国、さん?」
「……誰だ、お前は」
じろりと睥睨する目。
遙か高みから見下ろすような物言いに、寝起きのようにかすれた声もわずかに幼くて、しかしどこか妙な色気があった。
「あ……」
「ん、これか」
私の視線をたどって、彼は眼帯に手をかけ、なでる。
「先の会戦でやり合った時に、目に返り血が入っちまってな」と口の端をゆがめる。それは自分の戦歴を誇示しているようにも、へまを自嘲しているようにも見えた。
彼は私の知らないイギリスさん。
そして、私を知らない、過去のひと。
七つの海を又にかけた大国、大英帝国そのひとだった。
「おい、小娘」
「……まさか私のことですか」
「他に誰がいるんだ?」
「私しかいませんね」
外見の背格好にそう大差はないはずなのに、私を小娘と呼ばしめた男。日常的に自分より格下の者をあごで遣い慣れている口調そのものだった。むっとしながらも、私の背筋は伸びてしまうのが悲しき習性かな。
「ここはどこだ。俺はいつの間にこんな王宮みたいなところに連れてこられたんだ」
「ええと」
本当のことを伝えて、相手は信じるだろうか。わずかな逡巡。嘘をついてもよけいにこじれるだけだ。
「未来、です。あなたからすればずーっとずーっと先の。イギリスさん……いえ、たぶん未来のあなたのせいで、こんなことに」
「ほう」
「信じるんですか?」
「嘘なのかよ?」
「い、いいえ!」
魔法のせいなら仕方ねぇ、と彼はあっさり納得した様子でうなずく。こちらとしては説明の手間が省けてありがたいけれど、本当にこんなのでいいのだろうか。――彼がいいと言うのだから、いいのだろう。
自分のおかれている状況を把握できたら周囲を見渡す余裕ができたのだろう。じいっとこちらを見つめていた彼は、すっと目を細めた。
「お前は、《国》か」
座り込んだまま身体を固くして、私はこくりとうなずく。「そうか」とつぶやき、彼はまた私を子細にながめる。今度は上から下まで、ぶしつけに。私はこの視線に覚えがある。彼は検分しているのだ。私がいかほどに《価値》があるのかを。
知らず、後ずさっていた。
「逃げんなよ」
「いやいやははは!逃げるだなんてそんな!」――隙を見て逃げるつもりだった。
「腰が引けてるぞ」
私が立ち上がって体勢を整えるよりも早く、のびてきた手に腕をつかまれる。
「やっ!」
身をよじったら、ふたつくくりの髪がばらばらと肩からこぼれ落ちた。
彼は指先で私の髪をすくって、からめ取る。するりと逃げていくそれをまた追いかけて。頭が、髪の根本がこそばゆい。
「きれいだな」
笑みを浮かべてささやく。顔が近い。吐息が感じられるほどに。声が、出せない。
触られた。《インド洋の真珠》と誰かが謳った私を。黒真珠みたいだと讃えてくれたこの髪を。嬉しいはずがない。大英帝国、世界の覇者だった彼に褒められた――それはすなわち、彼に目をつけられた、ということ。
身体じゅうの血が逆流する。とっさに、バネみたいに跳ね返った右手で彼を振り払っていた。
「はなしてっ!」
「っ、」
ぱしん。乾いた音。
右手で、彼の頬をぶっていた。
彼もよもや私が抵抗してくるとは思ってもみなかったことだろう。したたかにぶたれた頬に手を当て、ほんのわずか、目を丸くして。口の中を切ったのだろう、唇の端に血がにじんでいた。
――と、彼の様子を見ていられたのはそこまでだった。
「いてぇな」
視界が大転回、肩をつかまれ床に引き倒されていた。したたかに背中をぶつけて、息が詰まる。
「え、……げほっ!」
「威勢がいいのは結構だが、……お前、よく言われないか?考えなし、って」
「うーっ!」
軽挙妄動を慎むべし。頭で分かっているからといって、そうそう実際に行動に移せるもんか。それができるなら、私はとうに世界のヒーロー(いやヒロインか?)になっている。
うなる私がそんなに可笑しいのか、彼はくつろいだ猫みたいに目を細めてくつくつと笑っている。力をこめているようには全然見えないというのに、床にぬい止められた肩はぴくりとも動かない。
「は、はなっ、はなせぇーっ!」
作品名:シュレディンガーの猫 作家名:美緒