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シュレディンガーの猫

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「そうはいくか、またぶたれちゃたまんねぇしな」
 よく言う。二度と、私の反撃なんてゆるさないくせに。
 ツボみたいなものを心得ているのだろう、まったく動かせない肩に、抵抗し逃げ出すような気力は、すっかり失っていた。涼しい顔をしてひとを押さえつけ、愉快そうに笑いながら口元の血をぬぐっている。
 彼がただただ、おそろしかった。
 頬をぶたれて、怒るどころか笑っている。ちょっと野良猫に指先を咬まれたようなものだというように、泰然としている。私の一切の抵抗など通用しない、絶望感。いや、それ以上に。
 たしなめるように、髪をなでる彼のてのひらの感触が伝わる。
「お前のご主人様はお前に教えなかったのか?日常会話にスラングは使うな、淑女たるものしとやかに、って」
 ん?と小首をかしげてる、思いがけなく幼い仕草。それとは裏腹に、まっすぐに見つめてくる目は威風堂々、自信に満ちていた。
 今はなき大帝国。世界にその名を知らしめた、列強国。
 ――いけない。自分を律する。
 これ以上、この瞳を見つめちゃいけない。
 強くかがやく翡翠色を、うつくしいなんて思っちゃいけない。
 他でもない私が。
 惹かれては、いけない。
 しっかと目をつぶる。が、ぐいっと強く顎を引かれ無理やり正面を向かされて。指に込められる強い力に思わず目を開けてしまう。
「お前は俺のことを知っているようだが、俺はお前を知らねぇ。名前は、なんという?」
 ふるふる、首を横に振ろうとする。実際は顎を固定されているから首もほとんど動かなかったのだけど、彼に拒絶の意志は伝わったらしい。きりきりと、さらに力を加えられて、骨がきしむ。
「なあ、教えろよ、お前の名を」
 彼の伏せがちな目の艶っぽさを、耳に響く威圧的な声を、見惚れては聞き惚れては、いけないというのに。

 その時だった。
「なにしてやがんだ」
 静かながらも声には怒りに満ちている。今度は彼、大英帝国が引き倒される番だった。私を押さえつけていたひとを退けられて、上半身を起こすと後ろから回ってきた腕に捕らえられた。
 イギリスさんが、助けてくれたのだ。ヒーローなんてガラでもないひとが。
「いってぇな、コブができてんじゃねーか」
 後頭部をさすりさすり、恨み言が聞こえてくる。背中に感じる体温。私は肩や顎が痛いのも忘れるほど、すっかり腰を抜かしていた。
「また妙なのが現れやがったな」
「おいコラ、妙とはなんだ自分に向かって!」
 大英帝国は頭をかきながら、侮蔑の笑みを浮かべる。
「自分って、お前が未来の俺だってのか?冗談だろう、こんな貧相な野郎が」
「んだとこらぁ!」
 わずかにトーンの違う、ふたつの声が言い合いを始めた。ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
「お前もう元の場所に帰れよ!」
「おいおい、俺を呼びだしたのは誰だ?」
「俺だよ!ちゃんと帰してやっから安心しろ!それよりこいつになにしてやがったんだ、お前はっ」
 急に話の矛先をこっちに向けられて、あせる。
「なんもしてねーよ。なにかされたのはこっちだぜ?お前のモンならちゃんと躾ておけよ」
「ああ?」
「もー、私のことはいいですからっ!ちゃんとこのひと帰せるんですか?」
「あったりめーだろ」
 手品のように出現する魔法の杖。お別れの言葉みたいに神妙な声で、イギリスさんは「なあ、」と過去の自分を呼んだ。
「お前のそばに《こいつ》はいるか?」
 私がフランスさんに発見されて、それからイギリスさんに横取りされるのは、もっとずっと後のこと。《大英帝国》である彼が私を知っているはずがない。
 イギリスさんは大胆に言葉を省いた。――お前のそばに、私、あるいは私に変わるような女の子はいるか?果たして正確にこめられた意味を汲み取った彼は、口の端をゆがめた。
「俺には必要ねぇよ、そんなもの。航海の邪魔だ」
 ――だからあんたにゃ友達ができねーんですよ、と感情にまかせて言葉が飛び出しかけたのを、すんでのところで飲み込む。いけないいけない、軽挙妄動を慎むべし!
 イギリスさんは、私の存在を確かめるように、後ろから回した腕に力をこめる。そして「そうか」とつぶやいた。

 ほあた!――どこか間抜けなかけ声に、魔法の杖をひと振り。大英帝国は、在るべき時代へと無事帰された。

 しばらく呆然としていた。ようよう、彼が腕を解いて、私はにじにじと彼から離れる。
「なぁセーシェル、」とのびてくる手。
 デジャヴュ。ぶれる視界には大英帝国そのひとの手が見えて。
「やだっ!」
 ぱしりと、イギリスさんの手を振り払っていた。
 目を丸くしながら、払われて宙に浮かした手越しに私をみているイギリスさん。驚いたその顔、さっきの彼にそっくり。当たり前だ、同一人物なのだから。
 声が出せないまま、ふと思う。そういやイギリスさんは、大英帝国の前では意地でも、一度たりとも私の名前を呼ばなかった。


 *


「悪ぃ」
「あ、ご、ごめんなさいっ!」
 気まずそうに引っ込めようとする手を、あわてて捕まえる。
「……お願い、このままで、いて」
 ふたりして座り込んだまま、不自然に手をつないだまま。すがるように、彼の手を両手で包んで握りしめる。
「ねえイギリスさん」
 かき乱された心の中を整理する。暗闇で一歩一歩足を踏み出すように、手探りしながら言葉をつむいでいく。
「私はあなたが好きです」
 アイラビュー。SVO、英語の基本構文。シンプルな想いの告げ方。
「ほんとうに、好きなんですよ?」
「……疑ってねぇよ」
 太陽は東から昇って西に沈むんですよ、とでも言ってみれば返ってきそうな、いぶかしげな声。こいつは突然なにを言い出すんだ、っていうような。
「でも、あなたがしたことは忘れません。もう時効もいいとこだから、今さら咎め立てやしないけど」
 幼い頃から面倒見てくれたフランスさんに喧嘩ふっかけて、彼から私を引き離したこと。インド洋沖の私の島から空気の悪いロンドンに連れてきて、私をこき使ってくれたこと。
 全部ぜんぶ、忘れちゃいない。水に流すことなんてできない。けれど今、私は彼とこうして一緒にいる。
「昔の、帝国時代のイギリスさんを見て、ぞくっとした。こわかった。でも、かっこいいと思った」
「おい……!」
「でもでもっ、違うの!イギリスさんを好きなのとは、全然違う!」
 顔や見た目の好みだけでイギリスさんを好きになったわけじゃない。大英帝国に惹かれたのはきっと、彼が周囲を圧倒せんばかりのエネルギーに満ちあふれていたから。
 繁栄は《国》の本能だ。もっと大きくなりたい、もっと力を得て、自分の国の民をしあわせにしたいと本能的に思っている。だから、私が大英帝国に対して抱いたのは憧憬に近い感情だったのだろう。それは恋ではない。
 今のイギリスさんに抱く感情とは、まったく次元が違いすぎる。
 握りしめた手が震えている。なだめるように握られる、手のひらのあたたかさに安堵する。
「あんまり頭、使い過ぎんなよ。ただでさえお前は、」
「なんですか。馬鹿だって言いたいんでしょ。分かってます」
「違う。ひねこびた横槍入れんじゃねぇよ」
 いじわるばっかりな口が、今ばかりは悪態のひとつもつかないなんて。
「セーシェル」
作品名:シュレディンガーの猫 作家名:美緒