シュレディンガーの猫
私の名を呼ぶ声。お砂糖をこっそり溶かし込んだような、私のためだけの声で、呼ばれるのが好きだ。
「ここはいいとこだな」と、私の島を褒める時の、やさしい顔が好きだ。
どれもこれも、私だけに向けられるものだから、好きなのだ。
「お前には、悩みこんだ顔なんて似合わねぇんだよ」
「それはどうも、です」とだけ言うのがやっとだった。
ああイギリスさん、あなたはいつだって、感情を伝えるのが下手くそすぎる。口から飛び出す言葉が、仕草が、邪魔をする。目の前で女の子がしょぼくれているというのに、気の利いた言葉のひとつも言えない。
でも、そんなひとだから愛おしくてたまらない。ヒトの感情とは摩訶不思議だ。
「イギリスさん」
「なんだ?」
「イ、……イングランド、さん」
「そっちの名前で、呼ぶんじゃねぇよ」
抱き寄せられて、くう、と喉が詰まる。許容範囲を超えて、とんだオーバーランだ。嬉しいのか悲しいのかそれ以外なのかも分からない感情に振り回されて、唇を噛みしめる。
もう考えることをやめた。無心になって、彼の胸元に顔をうずめていた。鼓動と同じリズムで背中をさすられて、次第に心が凪いでいく。
「セーシェル、パラレルワールドって知ってるか」
「え?……ええ、なんとなくは」
「俺だって正確に理解してるわけじゃねぇけどな」
無限に続くifの世界。選択肢が出現するたびに分岐し続け、平行に存在する時間軸。時間の流れはひと続きなのではなく、無数に枝分かれしていくという考え方、らしい。
「さっきの《俺》が、この俺の過去の姿とは限らねぇんだ。そもそも俺は、大昔に未来のお前と逢ったなんて記憶がない」
「忘れちゃったんですか?」
「そうかもしれないし、お前と逢ったという事実すらが無かったのかもしれない」
このイギリスさんが帝国時代に、未来の世界に呼び出されたという記憶が無いのと同じように。魔法で呼び出されて、帰っていった彼の棲む世界で、数百年後に私と出逢うなんて確証はなんにも無い。
「さっきの大英帝国さんも、いつか大切なひとに出逢えるといいですね」
「あの調子じゃ、あと何百年かは無理そうだけどな」
「あー、そうかもですね」
他でもないイギリスさんが言うのだ、説得力がありすぎる。
未来がどうなるのかなんて、蓋を開けてみなければ分からない。
けれど。
「出逢えたひとが、私だったらいいのになぁ」
――イギリスさんだって同じことを思ったからこそ、最後にあんなことを尋ねたんでしょう?
ふ、と笑う気配。また、思い上がんなとかなんとか言われるかと身構えていたのに、「さぁな」と言うのが聞こえただけだったので、拍子ぬけしてしまった。
End.
作品名:シュレディンガーの猫 作家名:美緒