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美月~mitsuki
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時津風(ときつかぜ) 【二章】

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 墨でも摩(す)ろうか。ただぼんやりとしているよりは良いかもしれない。そう思って墨を摩り始めた時、ふと脳裏に般若心経の事が浮んだ。以前、書道の師の手跡を見せて頂いた事がある。物言わぬ文字がこちらに迫って来るような不思議な力を感じた。あれを書いてみたい、そう思った。本棚から手本になりそうなものを見つけ出し、半紙に向かった。だがすぐに般若心経を選んだ事を後悔した。書き慣れない文字が多く、経文の意味も難解な為に気持ちが文字に込もらない。まるで記号を書き写しているかのような気持ちになり、途中で何度もやめたくなった。
 つまらない、それが正直な気持ちだった。
 筆を持ってつまらないと感じたのはあの時が初めてだった。写経がどういうものなのかも良く分かっていなかった。何もかもが無意味に思えた。そんな自分をただひたすら押し殺すようにして筆を動かし続けた。そうしていれば自然と目の前の事に集中出来る。それがいつもの自分だった。けれどいつまで経っても心が静まらない。いつもならすぐに文字の世界に入っていけるのに。腕が重い。背中が辛い。どうして、と焦りを感じた。まだほんの数行しか書き進んでいない。始めてから随分経ったと思ったのに、時計を見るとまだ十分も経っていなかった。自分の体も心も、どれも自分の思うようにならない。こんな感覚は初めてだった。
 自分が自分でなくなってしまったかのように思われて、言いようのない不安感に襲われた。一体どうしたというんだ。心がざわざわと騒ぎ、喉につかえた熱くて何か重苦しいものがせり上がって来るのを必死に堪えた。深呼吸をするように細く長く息を吐き出しながら、気持ちを切り替えるように筆に新たな墨を含ませる。
 ぱたりと硯の中に何かが落ちた。
 何だろうと思っている間に今度は机の上に落ちた。水滴だった。だが触ってみるとそれは微かに温かかった。その時、自分の頬が濡れている事にようやく気付いた。
 その瞬間、唐突に理解した。母はもう居ないのだと。
 もしもこの先、今のような気持ちになる事があったとしても、全て自分一人で乗り越えて行かなければならないのだと思った。胸の内を曝け出せる人は、もう居ない。
 結局写経を終えるのに夜通しかかった。涙が込み上げるたびに手を止めなければならなかった。写経をしていたのか、泣いていたのか分からないような時間だった。唯一はっきりしているのは、その夜は母を想って明かしたという事だ。
 夜が明けて、俺は母の通夜でも告別式でも泣く事はなかった。
 
 母への不義理を心の中で詫びながら鞄を文机の脇に置き、その上に数寄屋袋を重ねた。硯に水を差し、墨を摩り始めると先程の院主の言葉が思い出される。
 『自分の心を治めなさい』。
 赤司の家の人間として求められるまま、あらゆることを修めて来た。それが自分の為すべき事であり、それに向かって進む自分を誇りにさえ思っていた。自分の心を治めるなどという事は考えもしなかった。
 心を治める───。
 程なくして墨特有の香りが立ち昇り、鼻腔をくすぐった。こうして墨の香りを嗅ぎながら黙々と摩っていると、ざわついていた心が次第に鎮まっていくのを感じる。摩り終えると赤司は一度墨を脇に置いた。そしておもむろに両手を拳にして畳に突き、正座のまま後ろに下がって座布団から座を外す。体を床の間の方へ向けた。掛け軸に描かれた高僧の目が静かに赤司を見つめている。赤司は手を膝の上に置き、目を閉じて背筋を伸ばすとそのまま掛け軸に向かって一度、二度と続けてお辞儀をし、最後の三度目には額と両手が畳に付くまで深々と頭を下げた。
 今日の写経で自分は何を感じるのだろうか。
 筆に墨を含ませると赤司は息を長く吐き出し、そのまま躊躇うことなく半紙の上に筆先を置いた。