時津風(ときつかぜ) 【二章】
赤司は自ら発した声に我に返った。咄嗟に筆を持つ手を止め半紙を見下ろせば、写経は残すところあと数行にまで迫っていた。ハ、と短い溜息が洩れる。
「驚いたな・・・。」
思わず呟いた。
母の死に対してはとうの昔に気持ちの整理が出来ていた。嘆き悲しむよりも自分がどう生きるか、それを示す事が一番の弔いになるという自覚も出来ている。にもかかわらず、まさか自分の胸の内にこんな想いがあったとは。久しぶりの写経で感傷的になったか。そんな呟きが頭の中に浮かぶ。
幾許かの苦い想いを胸に抱きながら微かに眉を顰(ひそ)め、更に筆を進めようとしたその瞬間、ふ、と仄かな香りを感じた。両手に塗った塗香だろうかと自分の手元を思わず見やる。例え微かにでも風が動けば、鼻の慣れた香りも強く感じるものだ。だが、今感じた香りは塗香のものとは少し違うような気がした。いや、やはり気のせいだろう。手元から目を上げた赤司は、そこでギクリと動きを止めた。
向かい合って置かれたちょうど真正面の文机の前に、和服姿の女性が一人座っていた。
筆を手に静かに経を写している。歳の頃は二十代後半、いや、もしかするともっと上かもしれない。瑞々しい透明感と、まるで人生というものを既に悟ったかのような存在感。相反するものが彼女から漂い、不思議な印象を醸し出している。俯いた顔ははっきりとは見えないが、佇まいの美しい人だなと思った。すっと伸びた背筋が凛として、赤司の目に好ましく映った。だがそれと同時に、赤司の胸には訝しむ気持ちが湧いた。
いつの間に入って来たのだろう。
自分は人の気配には敏感なほうだ。例え写経中であったとしても、誰かが部屋に入って来れば気付かない筈が無い。それともそれだけ自分が思考の渦に嵌っていたという事なのだろうか。どこか釈然としないまま彼女を見ていると、不意に彼女が顔を上げた。
彼女の視線が真正面から赤司のそれとぶつかる。
すっと通った鼻筋に形の良い小ぶりな唇、印象的な切れ長の目は長い睫毛と黒目がちの瞳のせいか不思議と冷たさを感じさせない。なだらかな卵型の輪郭も彼女の印象に柔らかさを添えていた。
赤司は自分が彼女を注視していた事に気付き、その不躾な態度を内心恥じつつ彼女に黙礼をする。だが視線を向けられていた当の本人は何とも思っていなかったのか、赤司に気付くと微かな笑みを見せて軽く会釈を返し、再び文机に視線を戻した。顎のラインで綺麗に切り揃えられた彼女の髪が、俯いた瞬間にするりと前下がりに落ちた。
作品名:時津風(ときつかぜ) 【二章】 作家名:美月~mitsuki