時津風(ときつかぜ)【三章】
三章
障子を引き、中庭に面した濡縁に出た。
昼をとうに過ぎて傾きを変えた日の光が、庭の植木の艶やかな葉に反射している。今日は連日に比べ思ったほど暑さを感じないが、ここは市街地から離れた山間にあるせいか頬を撫でる風は数段ひんやりとしているような気がした。なにより空気が清浄でとても気持ちが良い。実渕の勧め通り、ここでゆったりとした静かな時間を過ごすのも悪くない。母の法要の準備の為に時間のやり繰りをしなければならない日が続いたせいか、赤司はこのところ気が張り通しだった。
足を止め中庭に目をやった。草木と土の匂いを感じる。それらを堪能するかのように赤司は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気と共に、体中に瑞々しい気が巡る様な感覚になる。庭の手前ではガクアジサイが青紫色の花姿で佇み、その少し奥に紅紫色の実を付けたムラサキシキブと、葉だけになったナツツバキが植わっていた。花の盛りはとうに過ぎ、ツバキの白い花は苔むした土の上に落ちた幾つかが残っているだけだ。青々とした枝が時折吹く風にその葉を揺らしている。
ここの中庭は隅々までよく手入れされているが、赤司の家のものとは違って実に簡素だった。敢えて花の美しさを競わせる様な人の目を意識した演出は一切ない。無駄な物が削ぎ落とされた潔いほどすっきりとした庭で、それが逆にふつふつと底から湧くような静かな力強さを感じさせた。静謐、という言葉が赤司の脳裏に浮かんだ。
中庭に向けられていた赤司の視界に、ふとくすんだ青色が入った。反射的にそちらへ目をやると、先程部屋へ案内された時には無かった筈の座布団の端が柱の陰から覗いている。どうやらそこで待てという事らしい。茶を振る舞うと言った僧侶の言葉を思い出し、柱の向こうへ回ろうと赤司がそちらへ歩み寄ると、彼の視界に更にもう一つ別のものが現れた。
赤司の足が反射的に再び止まる。
黒々と磨かれ、庭の緑が映り込む板の上にぽつんと置かれた薄花色の麻の夏座布団。少し間を空けたその隣に、先程まで同じ部屋で写経をしていたあの女性の姿があった。不意を突かれ、赤司は思わずその場に立ち尽くした。
彼女が自分より先に写経を終え部屋を出て行った事は覚えている。出て行く姿こそ目では追わなかったが、彼女が立ち上がり部屋を出て行く衣擦れの音を赤司は耳にしていた。自分より後にやって来た筈だから、先に出て行くとは随分と早い筆だなと思っていた。躊躇う様子もなく紙に筆を走らせていた様子からして、写経は慣れているのかもしれない。穏やかな表情で庭を眺める彼女の姿には、これといって不審な点はない。むしろ静謐なこの空間に座るその佇まいは先程の写経をしているそれと重なり、どこか神聖な印象すら与えた。
赤司の心が微かに波立った。何だろう。彼女の姿を見るとどことなく落ち着かなくなる。
見た所、遠方から来た観光客ではないようだ。錫色(すずいろ)の単衣紬(ひとえつむぎ)と白地に鼠色で描かれた輪違浅葉模様(わちがいあさばもよう)の名古屋帯。生成(きなり)の半襟と帯揚を合わせた涼しげな色合いの中で、鮮やかな赤の帯締が印象的だった。市内からの参拝者だろうか。写経が目的でわざわざここに足を運んだのだとしたら、彼女もまた何か胸に想うところがあるのかもしれない。先程目にした、経を一心に写す彼女の姿が思い出された。
「こんにちは。」
ふいに声を掛けられた。すぐにそれが彼女のものだと気付き、我に返った赤司も挨拶を返す。
「こんにちは。」
さて、どうしたものか。このまま隣に座って良いものかと赤司が内心躊躇っていると、彼女の手がゆるりと隣の座布団を示した。
「よろしければ、お座りになりませんか。」
柔らかく温かい声だった。女性らしいその物言いにどこか懐かしさを覚えながら、では失礼しますと赤司は一礼して座布団の手前に膝を突いた。その様子を黙って見つめていた彼女は赤司が座布団の上に落ち着くのを待ってから再び声を掛けてきた。
「突然お声を掛けてごめんなさい。お若い方ならお独りの方が良かったかしら。」
「いいえ、そんな事はありません。丁度ここで暫くゆっくりして行こうと思っていたところです。」
遠慮がちに言う彼女に赤司は微笑んだ。その笑顔を見て彼女は安心したのか、実に嬉しそうに目を細めた。彼女の嬉しさが赤司の方にまでじんわりと伝わって来るような笑みだった。
「ここは心地良い風が吹きますね。」
今度は赤司の方から話しかける。赤司の言葉に彼女は顔を正面へ向け、中庭から吹いてくる風をその肌で感じるかのように目を閉じると『ええ、本当に』と頷いた。彼女のしなやかな髪が庭から吹く風に後ろへ流れる。無意識にその動きを目で追った時、ふわりと覚えのある香りが赤司の鼻をくすぐった。どうやら先程嗅いだ香りは彼女のものだったようだ。優しい甘やかさの中に凛としたものを含むそれは、やはりどこか神秘的だった。
「学生の方?高校生くらいかしら。」
「はい。高校二年です。」
彼女の言葉は京都の人間のアクセントではなかった。赤司には耳慣れた関東の人間のものだ。予想が外れたなと思いつつ赤司が人当たりの良い笑みを浮かべて答えると、彼女がふと複雑な表情を浮かべた。何だろう。ほんの一瞬垣間見たその顔がひどく印象的で、思わず赤司は口を噤(つぐ)む。その時、不意に背後から別の声が掛った。
「失礼致します。お茶をお持ち致しました。」
先程部屋に案内してくれた僧侶だった。我に返って振り向いた赤司に僧侶はおや、という顔をした。だがそれも一瞬で、もとの静かな表情で盆に載せた茶碗と茶菓を正座した赤司の前に置く。黒い楽茶碗(らくちゃわん)と艶のある抹茶の深い緑色の対比が目に鮮やかだった。
「お濃茶(こいちゃ)にさせて頂きました。お口に合うとよろしいのですが。」
「これは・・・お心遣いありがとうございます。頂戴します。」
濃茶は赤司の好きな茶の練り方だ。こういった場で出されるのは大抵が薄茶だが、恐らく院主から赤司の好みを聞いたのだろう。赤司が笑顔を向けながら丁寧に礼を述べると僧侶は嬉しそうに目を細め、ごゆっくりお過ごし下さいという言葉を残して静かに立ち去った。その姿が完全に見えなくなると、辺りは再び静けさに包まれた。庭のナツツバキの枝が風に揺れ、生い茂る葉がさらさらと音を立てる。どこか遠くで鳥が啼いた。
茶碗を手に取ろうとした赤司の視線が、何気なく彼女の膝元に向いた。するとその手が止まり、彼の眉が僅かにひそめられる。彼女の前には茶碗も茶菓も置かれていなかった。一瞬動きを止めた赤司に気付いたのか、彼女が顔をこちらに向ける。目の前の少年の顔に浮かんだ表情を見ると、彼女は微笑んだ。
「どうぞ。お茶の味が変わってしまわないうちに召し上がって。」
その言葉に赤司は彼女を見上げた。
「ですが・・・」
躊躇いがちに赤司が呟く。この寺の者がこういった手落ちをするとは珍しい。先にここに座っていたのは彼女の方だ。本来ならば彼女に先に茶が出されるべきであり、自分が先に茶に手を付ける事に気が咎めた赤司だったが、彼女はやんわりと言った。
「私はいつも頂いておりますので、お気になさらないで。せっかくのお濃茶です、どうぞ。」
作品名:時津風(ときつかぜ)【三章】 作家名:美月~mitsuki