時津風(ときつかぜ)【四章】
四章
「あなたはご自分が思っている以上に、お辛かったのではないかしら。」
赤司に向き合うように座る錫色の和服姿の彼女は、磨かれた床に映り込む緑に視線を落としたまま呟いた。
「そうですね・・・僕にとって母の存在はとても大きかった。母を失った事はやはり相当なショックでした。」
赤司はじみじみと言いながら苦笑した。母親という心の支えを失った悲しみと不安で一杯だった幼い自分を振り返る。だが彼女はそんな赤司の言葉に顔を上げて言った。
「お母様がお亡くなりになった事はもちろんでしょうけれど・・・その時のあなたはそれ以外にも何か抱えていたものがあったのではなくて?」
赤司の目が驚きに見開かれ、彼女を捉える。何を言い出すのだとその目は訴えていたが、彼女はその印象的な瞳で赤司を見つめ返しながらさらに続けた。
「自分の意思では制御出来ない事への恐れ、それに遭遇した時に自分がどうなるのかという不安、自分の弱さ──どれも無意識だったのでしょうけれど、その時のあなたの目は全てご自分に向いています。お母様の死を通して、あなたはそれまで見て来なかった自分自身を見るようになった。人は心が定まっていれば自然と感謝や幸福を感じるものです。でも、その時あなたはご自分の中にある恐れや不安の方に目が向いた。自覚はなくてもあなたの心がそちらに向いていたのでしょう。思っている以上にあなたはご自分が置かれている状況を辛いと感じていたのではないかしら。」
赤司は言葉を失った。自分でも気付いていなかった。自分がもう一人いるような感覚。学校に居る時の自分と家に居る時の自分への違和感。そうした違和感を覚えるようになったのは母が亡くなった後、父の教育方針が更に厳しくなってからだと思っていた。だが母が亡くなった時点で既に自分の心は悲鳴をあげ始めていたというのか。
「・・・自覚がありませんでした。でも、今あなたにそう言われると思い当たる点は確かにあります。自分が自分でなくなったようなあの感覚は、それまで見ようとしなかった自分の内面に目が行ったせいかもしれません。認めたくない感情が自分の中にある事に気付き、僕は言いようのない不安に駆られた。母を失う事でそれまで蓋をしてきた様々な感情が表に出て来た可能性は充分考えられます。」
不安や恐れ。常に自分の中に在り、『赤司征十郎』としての自信と誇りの裏側にぴったりと貼り付くように存在してきた、決して無くならないもの。自分の弱さ。
赤司が答えると、彼女は頷いた。
「あなたが気付いていなくても、あなたの心は全てを知っています。自分の中にどんな想いや感情があるのか、それに気付くきっかけはいつも突然やって来る。そして一度気付いてしまえば、二度と気付く前の自分には戻れません。それと向き合うか、見なかった事にするか。そのどちらかしかないの。」
彼女はそこまで言うと口を噤(つぐ)んだ。彼女の瞳には、彼女と同じように押し黙る赤司の姿が映っている。赤司は何事かをしばらく考え込んでいたが、やがておもむろにその口を開くと彼女に尋ねた。
「───もしも見なかった事にしたなら、その時はどうなりますか?」
赤司の目は中庭を見据えたまま動かない。彼の言葉を聞いた彼女の目が伏せられた。何かを思い起こすような表情が一瞬そこに過ったが、すぐに彼女は顔を上げる。
「どんどん自分が辛くなるでしょう。気付いているのに何もしない、それは自分を誤魔化しているのと同じですもの。でも向き合う時にもそれ相応の痛みを伴います。自分の認めたくない自分と向き合わなければならない事にもなりますから。」
一陣の風が吹き、中庭の草木がざぁっという音を立て一斉に揺れた。真っ直ぐに前を見据える赤司の髪が風にあおられ、舞い上がる。その勢いに目を細めた彼はそのまま瞼を閉じ、風に身を任せるかのように僅かに顎を上げた。そのまま目を瞑り、己の意識の中に潜ってゆく。見慣れた巨大な水鏡の前に立つとその向こうにはもう一人の自分の姿があり、膝を抱えるように体を丸め眠っていた。赤司は水鏡に近付き、その向こうを覗き込む。すると向こう側で眠る彼の瞼がぴくりと動き、ゆっくりとその目が見開かれた。水中を漂う魚のようにゆらりと体を揺らめかせ起き上がると彼は赤司の前に立ち、こちらに向かって真っ直ぐにその赤と金の双眸を向けて来た。恐れるものなど何もないと言うかのような迷いの無い瞳。自分の弱さが生んだ、もう一人の自分。
風が止んだ。赤司はゆっくりと瞼を開き、強い光を湛えた瞳を彼女に向けると静かに、だが決意を孕んだ口調で彼女に告げた。
「あなたにお願いがあります。もし差し支えなければ、僕の話を聞いて頂けないでしょうか。」
真っ直ぐな瞳だった。彼女は黙ってその瞳をしばし見つめ、呟く。
「・・・私がお聞きしてもよろしいのですか?」
「はい。初対面のあなたにこんな事をお願いするのは失礼だと充分承知しています。ですが、僕はあなたに聞いて頂きたいのです。──お見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが・・・それでも構わなければ、是非お願いします。」
そう言って頭を下げる赤司をもう一度見つめた後、彼女は静かに頷いた。何故とは聞かなかった。
「分かりました。あなたがそう仰るのなら、そう致しましょう。」
顔を上げた赤司の視線が彼女を捉えると、彼女もまたその赤司の目を捉える。こうして自分の視線を真正面から受け止め、返して来る人間は自分の記憶の中にそう多くない。損得や欲を埋める為に自分に近付いてくる人間は、赤司が目を合わせると必ず視線が泳ぐ。見据える場所が定まらず、心がここに無いのが面白いようにはっきりと分かるのだ。赤司は幼い頃からそういった人間達を何人も見て来た。こんな風に自分を見るのはキセキの世代の面々か洛山のチームメイト達、そして両親くらいだろう。赤司は意識の片隅でふとそんな事を思う。この人は真剣に自分と向き合おうとしてくれているのだと感じた。
やはり自分の勘に間違いはなさそうだ。この人を信じてみよう。
「僕の中には───未だに消せない恐れがいくつも残っています。」
水面に小石を投げ入れるかのようにぽつりと呟きながら、意識の中の水鏡に向かって赤司は手を伸ばす。鏡の向こうの自分も同時に赤司に向かって手を伸ばした。二人の指先が互いに触れ合ったその瞬間、彼らを隔てる水鏡に波紋が広がり、そしてその波紋は赤司と彼女が並んで座るこの静謐な空間にも広がっていった。彼女はその波紋の広がりを追うかのように、黙って赤司の横顔を見つめている。
「父に自由を奪われる事への恐れ、自身の存在意義が消滅する事への恐れ、自分で自分をコントロール出来なくなる事への恐れ、そして・・・かけがえのないものを失う事への恐れ───」
赤司の瞳が暗い色味を帯びる。彼は自分の手をじっと見つめ、独り言のように呟いた。
「俺はその恐れを全て、勝つ事で埋めようとした───。」
赤司は見つめた手をぎゅっと握りしめると、何かを振り切るように顔を上げた。
「僕は一度、自分を見失った事があります。中学二年の時です。」
「あなたはご自分が思っている以上に、お辛かったのではないかしら。」
赤司に向き合うように座る錫色の和服姿の彼女は、磨かれた床に映り込む緑に視線を落としたまま呟いた。
「そうですね・・・僕にとって母の存在はとても大きかった。母を失った事はやはり相当なショックでした。」
赤司はじみじみと言いながら苦笑した。母親という心の支えを失った悲しみと不安で一杯だった幼い自分を振り返る。だが彼女はそんな赤司の言葉に顔を上げて言った。
「お母様がお亡くなりになった事はもちろんでしょうけれど・・・その時のあなたはそれ以外にも何か抱えていたものがあったのではなくて?」
赤司の目が驚きに見開かれ、彼女を捉える。何を言い出すのだとその目は訴えていたが、彼女はその印象的な瞳で赤司を見つめ返しながらさらに続けた。
「自分の意思では制御出来ない事への恐れ、それに遭遇した時に自分がどうなるのかという不安、自分の弱さ──どれも無意識だったのでしょうけれど、その時のあなたの目は全てご自分に向いています。お母様の死を通して、あなたはそれまで見て来なかった自分自身を見るようになった。人は心が定まっていれば自然と感謝や幸福を感じるものです。でも、その時あなたはご自分の中にある恐れや不安の方に目が向いた。自覚はなくてもあなたの心がそちらに向いていたのでしょう。思っている以上にあなたはご自分が置かれている状況を辛いと感じていたのではないかしら。」
赤司は言葉を失った。自分でも気付いていなかった。自分がもう一人いるような感覚。学校に居る時の自分と家に居る時の自分への違和感。そうした違和感を覚えるようになったのは母が亡くなった後、父の教育方針が更に厳しくなってからだと思っていた。だが母が亡くなった時点で既に自分の心は悲鳴をあげ始めていたというのか。
「・・・自覚がありませんでした。でも、今あなたにそう言われると思い当たる点は確かにあります。自分が自分でなくなったようなあの感覚は、それまで見ようとしなかった自分の内面に目が行ったせいかもしれません。認めたくない感情が自分の中にある事に気付き、僕は言いようのない不安に駆られた。母を失う事でそれまで蓋をしてきた様々な感情が表に出て来た可能性は充分考えられます。」
不安や恐れ。常に自分の中に在り、『赤司征十郎』としての自信と誇りの裏側にぴったりと貼り付くように存在してきた、決して無くならないもの。自分の弱さ。
赤司が答えると、彼女は頷いた。
「あなたが気付いていなくても、あなたの心は全てを知っています。自分の中にどんな想いや感情があるのか、それに気付くきっかけはいつも突然やって来る。そして一度気付いてしまえば、二度と気付く前の自分には戻れません。それと向き合うか、見なかった事にするか。そのどちらかしかないの。」
彼女はそこまで言うと口を噤(つぐ)んだ。彼女の瞳には、彼女と同じように押し黙る赤司の姿が映っている。赤司は何事かをしばらく考え込んでいたが、やがておもむろにその口を開くと彼女に尋ねた。
「───もしも見なかった事にしたなら、その時はどうなりますか?」
赤司の目は中庭を見据えたまま動かない。彼の言葉を聞いた彼女の目が伏せられた。何かを思い起こすような表情が一瞬そこに過ったが、すぐに彼女は顔を上げる。
「どんどん自分が辛くなるでしょう。気付いているのに何もしない、それは自分を誤魔化しているのと同じですもの。でも向き合う時にもそれ相応の痛みを伴います。自分の認めたくない自分と向き合わなければならない事にもなりますから。」
一陣の風が吹き、中庭の草木がざぁっという音を立て一斉に揺れた。真っ直ぐに前を見据える赤司の髪が風にあおられ、舞い上がる。その勢いに目を細めた彼はそのまま瞼を閉じ、風に身を任せるかのように僅かに顎を上げた。そのまま目を瞑り、己の意識の中に潜ってゆく。見慣れた巨大な水鏡の前に立つとその向こうにはもう一人の自分の姿があり、膝を抱えるように体を丸め眠っていた。赤司は水鏡に近付き、その向こうを覗き込む。すると向こう側で眠る彼の瞼がぴくりと動き、ゆっくりとその目が見開かれた。水中を漂う魚のようにゆらりと体を揺らめかせ起き上がると彼は赤司の前に立ち、こちらに向かって真っ直ぐにその赤と金の双眸を向けて来た。恐れるものなど何もないと言うかのような迷いの無い瞳。自分の弱さが生んだ、もう一人の自分。
風が止んだ。赤司はゆっくりと瞼を開き、強い光を湛えた瞳を彼女に向けると静かに、だが決意を孕んだ口調で彼女に告げた。
「あなたにお願いがあります。もし差し支えなければ、僕の話を聞いて頂けないでしょうか。」
真っ直ぐな瞳だった。彼女は黙ってその瞳をしばし見つめ、呟く。
「・・・私がお聞きしてもよろしいのですか?」
「はい。初対面のあなたにこんな事をお願いするのは失礼だと充分承知しています。ですが、僕はあなたに聞いて頂きたいのです。──お見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが・・・それでも構わなければ、是非お願いします。」
そう言って頭を下げる赤司をもう一度見つめた後、彼女は静かに頷いた。何故とは聞かなかった。
「分かりました。あなたがそう仰るのなら、そう致しましょう。」
顔を上げた赤司の視線が彼女を捉えると、彼女もまたその赤司の目を捉える。こうして自分の視線を真正面から受け止め、返して来る人間は自分の記憶の中にそう多くない。損得や欲を埋める為に自分に近付いてくる人間は、赤司が目を合わせると必ず視線が泳ぐ。見据える場所が定まらず、心がここに無いのが面白いようにはっきりと分かるのだ。赤司は幼い頃からそういった人間達を何人も見て来た。こんな風に自分を見るのはキセキの世代の面々か洛山のチームメイト達、そして両親くらいだろう。赤司は意識の片隅でふとそんな事を思う。この人は真剣に自分と向き合おうとしてくれているのだと感じた。
やはり自分の勘に間違いはなさそうだ。この人を信じてみよう。
「僕の中には───未だに消せない恐れがいくつも残っています。」
水面に小石を投げ入れるかのようにぽつりと呟きながら、意識の中の水鏡に向かって赤司は手を伸ばす。鏡の向こうの自分も同時に赤司に向かって手を伸ばした。二人の指先が互いに触れ合ったその瞬間、彼らを隔てる水鏡に波紋が広がり、そしてその波紋は赤司と彼女が並んで座るこの静謐な空間にも広がっていった。彼女はその波紋の広がりを追うかのように、黙って赤司の横顔を見つめている。
「父に自由を奪われる事への恐れ、自身の存在意義が消滅する事への恐れ、自分で自分をコントロール出来なくなる事への恐れ、そして・・・かけがえのないものを失う事への恐れ───」
赤司の瞳が暗い色味を帯びる。彼は自分の手をじっと見つめ、独り言のように呟いた。
「俺はその恐れを全て、勝つ事で埋めようとした───。」
赤司は見つめた手をぎゅっと握りしめると、何かを振り切るように顔を上げた。
「僕は一度、自分を見失った事があります。中学二年の時です。」
作品名:時津風(ときつかぜ)【四章】 作家名:美月~mitsuki