時津風(ときつかぜ)【最終章】
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「本日は誠にありがとうございました。お陰様で滞りなく法要を終える事が出来ました。」
赤司家の運転手がハンドルを握る車の中で、改めて赤司は菩提寺の院主に礼を述べた。彼の横には先日赤司を案内した僧侶の姿もある。院主は朗らかな笑みを浮かべながら赤司に応えた。
「征十郎はんも、はばかりさんどしたな。父君の名代でせんど寺へ足運ばはってせつろしかったやろが、孝行息子の姿に母君はさぞお喜びでっしゃろ。」
恐縮の意を表して赤司が頭を下げると、ふと思いついたように院主は言う。
「母君といえば・・・先日の写経はどうどした?」
「お陰様でじっくりと内省が出来、随分と心が落ち着きました。時にはああいった時間を持つ事も大切ですね。今は学業と部活動に追われる毎日ですので頻繁に時間を取る事は叶わないかもしれませんが、少なくとも母の命日の頃にはまた経を写したいと思っております。」
赤司が静かに微笑みながら言うと院主は深く頷いた。
「それは何より。生きとる間には悪い流れに流される事がようけありますよってなぁ。この世は誘惑で一杯や。目に見えるものの誘惑、目に見えへんものの誘惑。そんな中におって、流されるな言う方が難しおす。写経はそうした流れから抜け出し、心の三昧を取り戻してくれはりますのんや。」
「御院主様の仰る通りだと思います。経に向かうと、それまで見えていなかったものが見えて来る。不思議なものです。」
その言葉に深い実感がこもっているのを感じたのだろうか。院主は問い掛ける様な表情で赤司に顔を向ける。それに気付くと赤司は口元にふわりと笑みを浮かべた。
「写経の後で、ある方とのとても良いご縁を頂きました。その方のお導きで僕はとても大切な事に気付けた。そのお陰かどうかは分かりませんが、今日は朝から不思議な事ばかり起こります。いつも当たり前に目にしていたものがとてつもなく美しく見えたり、違った角度から捉える事が出来たり・・・。友人達の優しさにも改めて触れる事が出来ました。母の七回忌という今日のこの日に、大変ありがたい事です。」
そんな赤司の笑みを院主は実に感慨深そうに眺める。
「ほんま、血は争えんとはよう言うたもんや。」
「え?」
思わず院主の顔を見上げた。
「まさかあの日、征十郎はんから写経を申し出されるとは思ってもみませんどしたわ。これも血の為せる技やろかと、そら驚きましたんえ。」
その言葉の意味が分からず、赤司は院主に尋ねる。
「御院主様、それは一体どういう───」
「おや、父君から聞かされておらんのどすか。てっきり知ったはる思てましたわ。母君は赤司家に嫁がはった頃、赤司の菩提寺であるうっとこへよう足を運ばはっては写経をしたはりましたんえ。御実家が寺社に縁の深いお家柄ゆう事もあってか、元々仏縁をお持ちやったんどっしゃろ。」
赤司は耳を疑った。母が写経を?そんな話は一度も聞いた事が無い。父はもちろん、家の者の誰からもそんな話は出た事がなかった。
「存じませんでした。僕が写経を始めたのはほんの偶然からで・・・丁度母が亡くなった日に写そうとしたのが最初です。」
赤司の言葉に院主は心から驚いたようだった。思わず言葉を失い、まじまじと赤司の顔を見つめる。
「そらまた・・・不思議な事もあるもんやな。せやけど、そうやって日々の出来事に心を開いて感謝の念を抱く今の征十郎はんは母君に──詩織はんにそっくりや。征十郎はんの中にはちゃあんと母君が生きたはるんやな。」
赤司は口を噤む。
自分の中に母が───
その言葉を噛みしめていると、ふいに車内に携帯電話の震える音が響いた。
「ちょっと失礼。」
院主が電話を取り出す。相手と少し会話を交わし、そのまま目線で赤司に長くなりそうだと訴えたので赤司はそれに頷いて見せる。車の流れは順調なようだ。運転手に再度到着予定時間を確認した後、赤司は先日自分を案内してくれた僧侶に話し掛けた。
「先日は濃茶を頂きありがとうございました。滑らかで香りも良く、大変結構なお手前でした。」
すると僧侶は柔和な笑みを浮かべる。
「御丁寧にありがとう存じます。お口に合わはったようで、何よりです。」
歳の頃は四十代に差し掛かったくらいだろうか。笑顔は穏やかだが、その目には一本筋が通ったような芯の強さが宿っている。高潔な印象を受けた。この年齢で院主の傍付きという事はそれに相応しい素養を備えているのだろう。
「あちらの中庭も実に見事ですね。ありのままの自然体で、それでいて無駄なものが全くない。あまりの居心地の良さに時が経つのも忘れ、つい長居をしてしまいました。」
あの場で出逢った彼女とは随分と長い時間話し込んでいた。他に誰も来なかったから良かったものの、やはり失礼だったろうと赤司は思う。非礼を詫びる赤司に、だが僧侶はお気になさらずとやんわりと言った。
「時にはお独りになって己を見つめる時間も必要でございましょう。その為のあの場所でございますから。」
僧侶にそう言われ、ふと赤司は尋ねた。
「そういえば、あちらは随分と静かでした。休日にも関わらず、写経に来られた他の参拝の方々をほとんどお見掛けしませんでしたが・・・」
僧侶は笑って頷いた。
「一般の方々の写経は別の部屋で行なわれております。先日お通ししたお部屋は当院に縁のある方以外はお通ししておりまへん。先日は院主様のお言い付けで特別に御案内させて頂きました。」
その言葉に赤司の眉が顰められる。普段は使われていないという事は、あそこで出逢った彼女も自分と同じく特別に案内されたのだろうか。言われてみれば確かに彼女は一般の観光客とは違った印象だった。だがその姿を改めて思い浮かべた時、赤司は何か違和感を覚えた。
香の香りを強く感じる。
まただ。もう法要に使われた線香の香りはほとんど消えている筈なのに。そう思った瞬間、赤司の心の中で『違う』という声が響いた。
違う。
これは線香の香りではない。
もっと柔らかく甘やかで、それでいて凛とした───
車がアンダーパスに入った。暗くなった外に反射し、窓ガラスに映る自分の顔が赤司の目に入る。
───顔。
その瞬間、もやが掛ったかのような判然としない感覚が弾け飛んだ。
そうだ、顔だ。
愕然とした。
こんな事が有り得るというのか。何故気付かなかった。
だってこんなにも似ているではないか。
あんなに間近にこの顔を見ていたというのに。まるで光に掻き消されたかのような眩しさで見えなくなっていた。
洗面所の鏡に映った自分の顔。そこに一瞬重なった、もう一つの顔。
頬に触れる寸前で引き戻された指先も、静かに自分を見送ったその笑顔も。
あれは全部───
「えらい勘忍どした。歳をとるとお互い話が長ぅなってあきまへん。」
そう言って笑いながら携帯電話を懐にしまう院主に赤司は顔を向ける。もしやという思いは既に赤司の中で確信に変わっていた。
「──御院主様にひとつお伺いしたい事がございます。」
「どないしはった、難しい顔しはって。」
赤司の様子が変わったのに些か驚いて院主がそう言う。だが赤司はそれには答えず、院主に尋ねる。
作品名:時津風(ときつかぜ)【最終章】 作家名:美月~mitsuki