時津風(ときつかぜ)【最終章】
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夜明け前の冷えた空気が肌に心地良い。ランニングで体温の上がった身体を涼やかな風が撫でてゆく。
カーブを左手に曲がり、赤司は直線が続く通りに出た。昼間とは違い、人の気配の無い通りは静けさに包まれていて、赤司の規則正しい呼吸と軽快にアスファルトを蹴る足音だけが響く。直線道路は緩い登り坂になっており、そこを越え、更に下り切った付き当たりを曲がれば、じきに家だ。背後からエンジン音が近付いてきた。赤司の脇を新聞配達のスクーターが追い越して行く。腕の時計でタイムを確認した。五十一分。問題の無いペースだ。
鳥が啼き始めた。気付けば群青色だった空が紫を含んだ瑠璃色に変わっている。そろそろ日の出だな、そう思いながら坂道の中盤まで差しかかったまさにその時、目の前のアスファルトの黒い稜線の向こうから金色の光が矢のように放たれ始めた。ゆっくりと、しかし確実に上へ上へと昇って来る太陽。その光に刻々と色を変えてゆく朝の空と、そこにたなびく雲のシルエット。しんと冴えた朝の空気が振動し始めた様に感じる。夜の帳が上がり、新しい一日が始まろうとしている。
その光景に赤司の目が奪われる。
ああ・・・美しいな ──── 。
唐突に、そして強く赤司は思う。
感動の波がひたひたと、どうしようもなく胸の内に押し寄せる。自分がどうかしてしまったのではないかという思いが頭の片隅に過るが、すぐにそんな瑣末な事はどうでも良く思われる。夜明けの空はこんなにも美しいものだっただろうか。赤司はただただその光景に目を奪われるばかりだった。
感動の余韻を残したまま家に辿り着き、シャワーを浴びる。アイスグレーのバスローブを纏った姿で洗面所の鏡の前に立った時、ふと赤司は何かを思い出しそうになった。鏡に映る自分の顔。見慣れた筈のその顔を見た瞬間、何か別の映像が頭をよぎった気がした。だがそれはほんの一瞬で、後に残るのは鏡の中の自分の顔だけだ。
答えを引き出そうとそのまま鏡の前でしばらく考え込んでみたが、それが無駄な事だと悟ると赤司はそれ以上考えるのを止め、身支度を始めた。
朝食を済ませて来客用の大広間を覗くと、既に法要の祭壇を拵えに業者の人間が出入りを始めていた。そろそろ東京駅に向わねばならない。京都からやって来る僧侶達の到着時間までまだ少しあるが、出掛ける前に今一度父に予定の変更などがないか確認しておこう。そう思い赤司は父の姿を探した。自分より先に朝食を済ませたようだったから書斎にいるのかもしれない。
屋敷の奥に続く廊下を進んだところで、ふと和室の襖が少し開けられたままなのに気付く。そこは仏間で、先祖代々の仏壇が置かれている。誰かが最後まで閉めぬままになっていたのだろうと思い、襖に手を掛けた。閉めようとした瞬間、その隙間から見えた物に赤司は思わず手を止めた。
黒い楽茶碗が置かれていた。怪訝に思い、躊躇うことなく畳の上を進んで仏壇の正面に立つと、改めて赤司はそれをまじまじと見下ろした。仏前に茶が供えられている。洛山の寮に入ってからも実家に戻った際は毎朝仏壇に手を合わせるようにはしているが、仏前に抹茶が供えられているのを見たのは初めてだ。一体誰が、そう思った時、背後から声を掛けられた。
「征十郎様、お忙しい所を申し訳ございません。少しよろしいでしょうか。」
我に返って振り返ると、使用人の一人が申し訳なさそうに立っていた。
「ああ。どうした?」
赤司が身を翻して入口まで歩み寄ると、使用人が勝手口の方を見ながら言った。
「お勝手にご法要のお花が届いているのですが、大広間のどちらにお運びすればよろしいのか御指示を頂けますでしょうか。旦那様は今、どなたかとお電話中のご様子でして・・・。」
「──花?」
言われて赤司は眉を寄せた。今日の法要に集まるのは親族だけだ。彼ら側から供えられるものは全て広間に出入りしている業者が用意する手筈になっている。外から花が届けられるとは聞いていなかった。
「分かった。俺が出よう。」
申し訳ありません、と恐縮する使用人を連れて勝手口に回って見れば、確かにそこには白い胡蝶蘭のあしらわれた大きな弔事用のフラワーアレンジメントが置かれていた。花屋らしき男が受取書を手に立っている。
「一体どこから・・・」
受取書を受け取りながら送り主の欄に目をやり、些か驚く。
『洛山高校 バスケットボール部一同』とそこには記されていた。
この字は実渕のものだ。恐らく発案は白金監督か実渕あたりだろう、そんな事を思いながら受取書にサインをする。花屋が礼を述べて帰って行き、使用人が赤司の指示を受けてアレンジメントを手に大広間へ下がった。
「ありがたい事だな・・・。」
母の七回忌の為に、わざわざ部で花を出してくれるとは思ってもみなかった。
勝手口で独り呟いた時、再び戸口の前に人影が立った。扉の向こうから呼び鈴の音が鳴るのが赤司の耳にも聞こえる。使用人の部屋にも同じ音が響いているだろう。さっきの花屋が何か忘れ物でもしたか、そう思いながら赤司自らが戸を開けると、今度は小柄な女性が立っていた。ジーンズにスニーカーという出で立ちで、店名らしきロゴの入ったエプロンを身に付けている。
「おはようございます。赤司様のお宅でしょうか?」
「ええ、そうですが・・・」
「お花のお届けにあがりました。」
「──花?」
先程使用人に呟いたのと全く同じ言葉を赤司は繰り返した。彼女の手に抱えられた花を見れば、今度は大輪のカサブランカが見事なアレンジメントがそこにあった。
「ええと・・・赤司征十郎様 御母堂様宛になっております。お間違えないでしょうか。」
「ああ・・・確かに。」
少々面食らいつつも赤司が身体を脇に退け戸口を空けると、花屋は失礼しますと中に入り受取書を差し出した。
「お間違えがなければ、こちらに受取のサインをお願い致します。」
今度は一体誰が母に花を送って来たというのだろう。再び送り主の欄に目をやり、赤司はその目を見開いた。小さな文字で少し窮屈そうに六名の名が連ねられている。
『青峰大輝 黄瀬亮太 黒子テツヤ 緑間真太郎 紫原敦 桃井さつき』。
それを見た瞬間、胸が締め付けられた。まさか彼らもこうして気を配ってくれたとは・・・。女性特有の丸みを帯びた文字には見覚えがある。これは恐らく桃井のものだろう。ここの住所もそうだが、よく今日が母の七回忌だと分かったものだ。改めて彼女の情報収集能力に驚きながら赤司はサインをし、受取書を花屋に返す。
『ありがとうございました』と花屋が戸を閉めた時、赤司の背後から慌てて使用人がやって来る。お手を煩わせて申し訳ございませんと謝罪する彼女に『構わないよ』と笑いながら、赤司は今受け取ったアレンジメントを手渡した。
「まぁ、カサブランカがお見事ですこと。こちらはどう致しましょう?」
「そうだね・・・これも俺の友人達からの贈り物だから、先程のものと隣同士に置いてもらおうか。」
畏まりました、と言い残して使用人は忙しそうに中へ戻ろうとする。ふいに思い立ち、赤司はその背を呼び止めた。
「仏間の仏前に供えられた茶だが、あれを供えたのは誰だ?」
作品名:時津風(ときつかぜ)【最終章】 作家名:美月~mitsuki