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美月~mitsuki
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時津風(ときつかぜ)【最終章】

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 赤司の問い掛けに使用人が一瞬何の事だろうという顔をした。だがすぐに思い当たったようで、ああと頷くと笑顔を見せる。
「旦那様でございます。」
「え・・・?」
 思ってもみなかった答えに赤司が口を噤む。
(──父が?)
「御存知ありませんでしたか?毎年奥様の命日の朝には旦那様自らお茶を立てられ、お仏前にお供えしていらっしゃいます。奥様はお濃茶がお好きでしたから。」
 赤司は絶句した。知らなかった。父がそんな事をしていたとは。
「そう・・・か。いや、呼び止めてすまなかったね。ありがとう。」
 使用人が下がると、赤司は茫然とした。今日は一体何だというんだ。朝日を見た時の感覚といい花といい、朝から不思議な事ばかり起こる。それにしても、自分の茶の好みが母譲りだとは知らなかった。赤司は僅かながらのくすぐったさを覚えながら父の書斎へと向かう。
 ドアの前に立ち、三度扉を叩く。すぐに入れという返事があった。どうやら電話は終わったらしい。
「おはようございます、父さん。」
 中に入ると扉を閉め、その前で赤司はきっちりと一礼をした。父と顔を合わせる機会があれば必ずしている朝の挨拶だ。
「征十郎か。法要の準備はどうだ。」
「今のところ問題はありません。葬儀会社の者が会場の準備に入ったようです。先程、僕の友人達から花が届きましたので広間に運ばせました。」
「友人?」
 大きな机の前に座り、何事かの書類に目を通していた赤司の父がそこで顔を上げる。いつもならその声の調子を聞くだけで胃の辺りが重苦しくなるのだが、今朝は不思議とそれは感じられなかった。
「はい。洛山と帝光中時代の部活のチームメイト達からです。」
「ふん・・・。」
 さして関心を示さない様子で赤司の父は書類に目を戻す。いつもの事だ。赤司はちらりと壁の時計に目をやると、予定に変更は無いかどうかを確認しようとした。そろそろ迎えに出なければならない。
「これから御院主様のお迎えに上がります。この後の予定に変更は───」
「征十郎。」
 不意に話を遮られ、ぐっと詰まるが、堪えた。一拍置いて『はい』と返事をすると、赤司は黙って父親の次の言葉を待つ。
「嵯峨で写経を行なったそうだな。昨夜の電話で院主様からそう伺った。」
「───はい。」
 何か問題があっただろうか。写経の事は別に知られても構わないと赤司は思う。疚しいことがある訳でもない。だが父の方からわざわざ話を振って来るからには何か理由がある筈だ。話す必要の無い話題を自ら口にするような事はしない。
 息子の答えを聞くと、僅かな間を置いて赤司の父は小さく溜息をつく。
 父らしくない。
 咄嗟にそう感じた。その様子に些か父の内心が気になったが、赤司は何も言わずに黙っていた。こういう時は父の出方を見てから対応した方が良い。その一方で赤司は書類を持つ父の手にじっと視線を注いだ。赤司の胸の中に母の為に一杯の茶を点てる父の姿が浮かぶ。父が母の為に茶を・・・。息子の赤司にしてみれば、それはひどく不思議な光景だった。
「母親を忘れろとは言わん。だが、いくら偲んでも死んだ人間は戻っては来ない。感傷に浸る暇があったら、自分のやるべき事を一つでも多く片付けろ。」
 そう言うと父は手にしていた書類を机の上に置いた。赤司は表情を変えない。だが無言のまま奥歯を噛みしめた。
 なんだ。言いたかったのはそういう事か。
 一瞬、父に期待した自分がいた。仏前の茶の事を知った後だ。何かもっと違う言葉を掛けられるのではないかと思った。
 胸の中に実に嫌な苦い感情が広がる。この感覚は今まで何度も経験してきたが、いつまで経っても慣れない。失望と諦め、嘆きと憤り。人の想いを汲もうとしない父の非情さを嘆き、憤っている自分を赤司は強く自覚する。
 動揺するな。ざわざわと蠢く心の乱れを感じながらも、そう赤司は自分に言い聞かせた。父には父の見えているものがあるのだろう。それが自分と違うからといって父を否定する事はしない。嵯峨を訪れたあの日以来、赤司はそう心に決めていた。
 赤司の脳裏に寺で出逢った彼女の言葉が浮かぶ。陽の光のような笑顔。
 そもそも俺は、何故こんなにも父の言葉に反応するのだろう。その考えに至った瞬間、ふと気付く。
 あぁ、そうか。
 思わず胸の内で苦笑してしまう。
 子供の頃は父に対して言いたい事があっても言えず、自分の声を押し殺してきた。大きな存在である父に面と向かって何か言えるだけの確たるものが自分にはまだ無いという思いもあったし、父には何を言っても無駄だという思いもあった。自分達は相容れないだろうと。そんな中、力を得た『もう一人の自分』が表に現れた。父が求める理想の跡継ぎ。それを完璧に体現して見せる事で自分の力を父に示そうとした。
 自分は決して赤司の家に生まれた事を嘆いている訳ではない。ただ、自分がどんな想いで『赤司征十郎』であろうとしているのかを父に気付いて欲しかった。父の非情さに憤るのは、そういった自分の想いに気付いて欲しいという感情があるからだ。だから人の想いを汲まないという理由で父に腹を立てるのだろう。心の底ではこんなにも、自分を分かって欲しい、認めて欲しいと望んでいるのだ。
 まるで子供のように。
 他の誰でもない、この父に。
 その瞬間、まるで潮が退くかのように心の波が静まった。
 そんな息子の胸の内には気付きもしないのか、赤司の父は執務用の机の椅子から立ち上がるとこちらにまっすぐ向かって来た。無言のままの息子に、その沈黙が了承の証と受け取ったのかもしれない。父と向き合うように戸口の傍に立つ赤司はそんな父親の顔を見上げる。父はこんな顔をしていただろうか。もう随分と長い間、父の顔をまともに見ていなかったような気がする。重々しく、人を寄せ付けない独特の威圧感。だがその重々しさの中にどこか疲れのようなものを赤司は感じた。
 赤司の家を守って来た父。
 思えば自分は一度も父の迷う姿や取り乱した姿を見た事がない。母が亡くなった時でさえそうだった。常に端然とし、周りの人間に的確な指示を与え動かしてきた。父親の姿としてそれが余りにも当たり前だった為にこれまで何も感じていなかったが、その姿勢を貫く事がどれほど大変な事かは今の赤司にはよく分かる。
 全てに於いて秀でていてこそ赤司家の人間。
 この理念を貫こうとしてきたのは自分だけではないのだ。父もまた、赤司の家に生まれた人間なのだから。
「予定に変更はない。先方へはくれぐれも粗相の無いように。いいな。」
 そう言い残して父は赤司の脇をすり抜け、部屋を出て行こうとする。
「───父さん。」
 息子の呼び掛けに父の足が止まった。背を向けて立つその姿は今の赤司にとってやはりまだ大きく見える。
「俺はこれからも写経は続けるつもりです。ですがそれは決して感傷に浸っているからではありません。」
 赤司は先程まで父が座っていた場所を見つめながら言った。父の机。いずれは自分もあそこに座る事になるだろう。