粃 ――シイナ――
粃 ――シイナ――
◇◇◇ ◇◇◇
月をください。
他には何も欲しがりません。
この身体も、
このあまり役には立たない魔力というやつも要りません。
どうか、月をください。
輝く月を、青い光を。
太陽のように輝く光ではなく、
映し返すだけの優しい光でいい。
月が欲しいのです。
自分はもう、誰でもないものだから、
そんな優しい光だけでも、欲しいのです。
◇◇◇ ◇◇◇
そいつに殴られた。
必死な顔で、バカなことを言うな、と言ったこの、未熟な自分自身に――。
聖杯を壊し、セイバーを留めた凛に、己の過去である未熟者を頼んだ矢先、木立の中から駆けてきたそいつに、まず右ストレートをくらいそうになったのを屈んで避けた。が、そこに思いがけず蹴りが飛んできた。
気が緩んでいたのか、それとも魔力が切れかけていたからなのか、正確なところはわからない。とにかく、そいつ――過去の自分自身である衛宮士郎の続く攻撃に反応ができなかった。
後ろに倒れ込んだ私に馬乗りになって、そいつは拳を振り下ろしてきた。
頬に軽い痛みを感じはしたが、歯が折れるだとか、血を噴くだとかはなかった。
こいつも消耗しているのだろう、力など無いに等しい。
「遠坂に何を頼んでいるんだ! 自分のことだろうが! 自分で責任を取れ!」
だが、こいつの言葉に私は打ちのめされていた。
たいした言葉ではない。
人の心を揺さぶるようなボキャブラリーは持ち合わせていたためしはないので、ごくごく平凡な言葉であることに間違いはない。
だというのに、私はどういうわけか、その言葉に反応し、ならば、そうしてやる、と意気込んだ。
睨みつけてきた琥珀色をようやく睨み返し、襟元を掴んでいたこいつの手首を握りしめる。
ぎり、と軋むほど手首を掴んだ痛みに衛宮士郎は歯を喰いしばったが、さすがに声を上げることはなかった。
「貴様の望み通り、責任を取ってやろう」
皮肉に笑えば、不遜な笑みを返してくる。
まったく、こいつとは本当に相容れられない。
そのまま契約を済ませ、私はこの世界に留まることになった。
***
これが、エミヤシロウ。
驚きだった。
まさか、自分がエミヤシロウに会うなんて……。
屈強な身体と、努力に努力を重ねた剣技と、唯一無二の投影魔術。
とうてい自分などとは比べ物にならない強さを持っている。
魔術に関してだけは同じと言えるけれども、他は一切同じではない。
自分は……、衛宮士郎である自分は、到底、彼のようにはならない。
いや、なれない。
自分は、根本的に違うから。
自分は、衛宮士郎だけど、違うから。
「…………」
ああ、やってしまった。
取り返しがつかないかもしれない……。
大きなため息がこぼれる。
「咄嗟にやってしまったとはいえ、どうやって過ごせばいいんだ……」
何事もなく聖杯戦争後の日々が過ぎ、一週間が経った。
遠坂とセイバーは、自分の身体が回復するまで家にいてくれて、何かと世話を焼いてくれた。だけど、自分がある程度動けるようになると、遠坂はセイバーを連れて自宅に戻ると言った。
「それじゃ士郎、まだ体調がよくないんだから、寝てるのよ」
「ああ、うん。気をつけてな、遠坂。セイバー、頼んだぞ」
「はい」
頷いたセイバーは何事かを訴えるような目をしていた。
なんだろう?
「シ、シロウ、その……」
首を傾げて聞く体勢になった。だけど、
「あ、い、いえ、なんでもありません!」
セイバーはぶんぶんと首を振って、玄関を出ていった。
「どうしたんだろ?」
「おおかた、離れ難いのだろう」
「おわ! ビックリした。いたのかよ」
少女主従を見送っていたら、背後にアーチャーが立っていた。
跳び上がって驚いてしまい、フン、とアーチャーに鼻で笑われてしまった。
「な、なんだよ」
上目で睨むと、アーチャーは興味を失くしたように廊下を奥へと行ってしまう。
「なんなんだ……」
ため息をつくしかなかった。
ほんとに、どうやって、こいつと過ごせばいいんだろう。
何を考えているかわからないし、話が弾むわけでもないし……。
契約してしまったものの、あの時、自分が何を考えていたかなんて、もうわからない。
いや、考えていなかったから引き留めて、契約なんてしたんだろうな。
遠坂とセイバーには、まだ家にいてほしかったけど、そうもいかない。
遠坂はいっぱしの魔術師だけど、まだ学生という生活面もある。ずっと自宅を空けたままにしているのも色々と問題だろうし、遠坂が戻るというなら、それを引き留める権利は自分にはない。
「はぁ……」
自室前の縁側にしゃがんだまま、ぼんやりと空を見上げた。
いまだに身体が重く、気だるい。
聖杯戦争は命を懸けての戦いだった。色々と魔力にしても身体的にしても無理をし続けた結果なので仕方がない。おかげで投影魔術が使えるようになったのはよかったけれど。
立つのも億劫だけど、そろそろ夕飯の支度をしないとな。
あいつも魔力補填のために食べないとダメだろうし。
「よいしょ」
膝に手をついて、立ち上がろうとすると、ふらぁ、と身体が傾いた。
「あれ?」
平衡感覚を失って、縁側からガラス戸を開け放ったままの外へ身体が傾いていく。
(あ、まずい)
痛みに身構えた。
ぐ、と腕を引っ張られ、ジーンズのベルト通しを掴まれて、落下はしなかった。
「へ?」
引っ張られた腕を見ると、褐色の手が自分の腕を掴んでいる。その手を視線で辿っていくと、眉間にシワを刻んだアーチャーが、不機嫌そうに自分を捕まえていた。
「あの……」
「寝ていろ、たわけ」
そのまま腕を引っ張られ、部屋の布団の上へ投げ捨てられた。
「いって、てめぇ!」
起き上がろうとしたら肩を踏みつけられて、布団に沈んだ。
「何しやがる!」
顔だけ振り向いて睨みつけると、
「食事くらい用意してやる。そんな身体でうろつかれても邪魔なのでな」
「く……、こ、この……」
呻く自分を見下ろすアーチャーは、胸がすいた、とでもいった顔で出ていった。
「お、覚えてろ……」
悪態をつくものの、すぐには動けない。
結局そのまま横になって、夕食まで眠ってしまった。
***
幸せそうな男の顔が見える。
生きていてよかった、と子供の手を取り、涙を流す男――衛宮切嗣が生き残りを見つけたあの瞬間……。
(ああ、あの記憶……)
赤い赤い記憶。
熱と炎と苦しさと悲しさと悔しさと恐怖と、ただ幸せそうな男の顔。
衛宮士郎の記憶が流れてくる。
(契約したのだから当たり前か……)
縁側で、立てた片膝に頬杖をついた。
深夜、主は眠っている。
私を留めた主はまぎれもなく過去の自分であり、同じ記憶を持っている。主が眠っていると、やはりあの記憶が流れてくる。
今も苦しんでいるのだろうか。
小さなため息がこぼれて、瞼を伏せた。
幼い自分を抱き起した養父の姿。
記憶の底にある光景。
あまり思い出したくはなかったビジョン。
(流れてくるものは、まあ、仕方がない……)
息を吐いた時、ざ、とノイズが走った。
◇◇◇ ◇◇◇
月をください。
他には何も欲しがりません。
この身体も、
このあまり役には立たない魔力というやつも要りません。
どうか、月をください。
輝く月を、青い光を。
太陽のように輝く光ではなく、
映し返すだけの優しい光でいい。
月が欲しいのです。
自分はもう、誰でもないものだから、
そんな優しい光だけでも、欲しいのです。
◇◇◇ ◇◇◇
そいつに殴られた。
必死な顔で、バカなことを言うな、と言ったこの、未熟な自分自身に――。
聖杯を壊し、セイバーを留めた凛に、己の過去である未熟者を頼んだ矢先、木立の中から駆けてきたそいつに、まず右ストレートをくらいそうになったのを屈んで避けた。が、そこに思いがけず蹴りが飛んできた。
気が緩んでいたのか、それとも魔力が切れかけていたからなのか、正確なところはわからない。とにかく、そいつ――過去の自分自身である衛宮士郎の続く攻撃に反応ができなかった。
後ろに倒れ込んだ私に馬乗りになって、そいつは拳を振り下ろしてきた。
頬に軽い痛みを感じはしたが、歯が折れるだとか、血を噴くだとかはなかった。
こいつも消耗しているのだろう、力など無いに等しい。
「遠坂に何を頼んでいるんだ! 自分のことだろうが! 自分で責任を取れ!」
だが、こいつの言葉に私は打ちのめされていた。
たいした言葉ではない。
人の心を揺さぶるようなボキャブラリーは持ち合わせていたためしはないので、ごくごく平凡な言葉であることに間違いはない。
だというのに、私はどういうわけか、その言葉に反応し、ならば、そうしてやる、と意気込んだ。
睨みつけてきた琥珀色をようやく睨み返し、襟元を掴んでいたこいつの手首を握りしめる。
ぎり、と軋むほど手首を掴んだ痛みに衛宮士郎は歯を喰いしばったが、さすがに声を上げることはなかった。
「貴様の望み通り、責任を取ってやろう」
皮肉に笑えば、不遜な笑みを返してくる。
まったく、こいつとは本当に相容れられない。
そのまま契約を済ませ、私はこの世界に留まることになった。
***
これが、エミヤシロウ。
驚きだった。
まさか、自分がエミヤシロウに会うなんて……。
屈強な身体と、努力に努力を重ねた剣技と、唯一無二の投影魔術。
とうてい自分などとは比べ物にならない強さを持っている。
魔術に関してだけは同じと言えるけれども、他は一切同じではない。
自分は……、衛宮士郎である自分は、到底、彼のようにはならない。
いや、なれない。
自分は、根本的に違うから。
自分は、衛宮士郎だけど、違うから。
「…………」
ああ、やってしまった。
取り返しがつかないかもしれない……。
大きなため息がこぼれる。
「咄嗟にやってしまったとはいえ、どうやって過ごせばいいんだ……」
何事もなく聖杯戦争後の日々が過ぎ、一週間が経った。
遠坂とセイバーは、自分の身体が回復するまで家にいてくれて、何かと世話を焼いてくれた。だけど、自分がある程度動けるようになると、遠坂はセイバーを連れて自宅に戻ると言った。
「それじゃ士郎、まだ体調がよくないんだから、寝てるのよ」
「ああ、うん。気をつけてな、遠坂。セイバー、頼んだぞ」
「はい」
頷いたセイバーは何事かを訴えるような目をしていた。
なんだろう?
「シ、シロウ、その……」
首を傾げて聞く体勢になった。だけど、
「あ、い、いえ、なんでもありません!」
セイバーはぶんぶんと首を振って、玄関を出ていった。
「どうしたんだろ?」
「おおかた、離れ難いのだろう」
「おわ! ビックリした。いたのかよ」
少女主従を見送っていたら、背後にアーチャーが立っていた。
跳び上がって驚いてしまい、フン、とアーチャーに鼻で笑われてしまった。
「な、なんだよ」
上目で睨むと、アーチャーは興味を失くしたように廊下を奥へと行ってしまう。
「なんなんだ……」
ため息をつくしかなかった。
ほんとに、どうやって、こいつと過ごせばいいんだろう。
何を考えているかわからないし、話が弾むわけでもないし……。
契約してしまったものの、あの時、自分が何を考えていたかなんて、もうわからない。
いや、考えていなかったから引き留めて、契約なんてしたんだろうな。
遠坂とセイバーには、まだ家にいてほしかったけど、そうもいかない。
遠坂はいっぱしの魔術師だけど、まだ学生という生活面もある。ずっと自宅を空けたままにしているのも色々と問題だろうし、遠坂が戻るというなら、それを引き留める権利は自分にはない。
「はぁ……」
自室前の縁側にしゃがんだまま、ぼんやりと空を見上げた。
いまだに身体が重く、気だるい。
聖杯戦争は命を懸けての戦いだった。色々と魔力にしても身体的にしても無理をし続けた結果なので仕方がない。おかげで投影魔術が使えるようになったのはよかったけれど。
立つのも億劫だけど、そろそろ夕飯の支度をしないとな。
あいつも魔力補填のために食べないとダメだろうし。
「よいしょ」
膝に手をついて、立ち上がろうとすると、ふらぁ、と身体が傾いた。
「あれ?」
平衡感覚を失って、縁側からガラス戸を開け放ったままの外へ身体が傾いていく。
(あ、まずい)
痛みに身構えた。
ぐ、と腕を引っ張られ、ジーンズのベルト通しを掴まれて、落下はしなかった。
「へ?」
引っ張られた腕を見ると、褐色の手が自分の腕を掴んでいる。その手を視線で辿っていくと、眉間にシワを刻んだアーチャーが、不機嫌そうに自分を捕まえていた。
「あの……」
「寝ていろ、たわけ」
そのまま腕を引っ張られ、部屋の布団の上へ投げ捨てられた。
「いって、てめぇ!」
起き上がろうとしたら肩を踏みつけられて、布団に沈んだ。
「何しやがる!」
顔だけ振り向いて睨みつけると、
「食事くらい用意してやる。そんな身体でうろつかれても邪魔なのでな」
「く……、こ、この……」
呻く自分を見下ろすアーチャーは、胸がすいた、とでもいった顔で出ていった。
「お、覚えてろ……」
悪態をつくものの、すぐには動けない。
結局そのまま横になって、夕食まで眠ってしまった。
***
幸せそうな男の顔が見える。
生きていてよかった、と子供の手を取り、涙を流す男――衛宮切嗣が生き残りを見つけたあの瞬間……。
(ああ、あの記憶……)
赤い赤い記憶。
熱と炎と苦しさと悲しさと悔しさと恐怖と、ただ幸せそうな男の顔。
衛宮士郎の記憶が流れてくる。
(契約したのだから当たり前か……)
縁側で、立てた片膝に頬杖をついた。
深夜、主は眠っている。
私を留めた主はまぎれもなく過去の自分であり、同じ記憶を持っている。主が眠っていると、やはりあの記憶が流れてくる。
今も苦しんでいるのだろうか。
小さなため息がこぼれて、瞼を伏せた。
幼い自分を抱き起した養父の姿。
記憶の底にある光景。
あまり思い出したくはなかったビジョン。
(流れてくるものは、まあ、仕方がない……)
息を吐いた時、ざ、とノイズが走った。